栗、栂、蓮の十三粍機銃と防弾板

樅型駆逐艦の栗、栂、蓮は支那事変中に十三粍連装機銃を装備しており、栂と蓮はその機銃座に防弾板を装着していたことが分かっています。
本項では、その防弾板がいつ頃どこに装着されていたかについて、十三粍連装機銃と併せて各艦ごとに整理していこうと思います。
※航泊日誌では、機銃が搭載されたかどうかについてはあまり明記されていないため、機銃の修理後や搭載後に試射を行うことから、機銃の試射を搭載タイミングの参考としています。

【 栗 】
栗は先述した通り、十三粍連装機銃の装備は確認できるものの、十三粍連装機銃付近に防弾板が装着されていたことは確認できていないため、十三粍連装機銃の装備についてのみ記載します。
装備した機銃の全体が分かる史料として「揚子江部隊所属艦船要目一覧表」という史料がありますが、その史料によると、昭和14年11月15日時点で栗が装備していた機銃は下記の通りとなります。
装備機銃:九三式十三粍二連装×1、伊式十三粍二連装×1、毘式十二粍×1、毘式七・七粍×2、一一式軽機×2
※史料では伊式の文字が読みづらく文字だけだと判断が難しい部分がありますが、後述する伊式十三粍連装機銃の形状と写真1の栗の写真から同じ機銃と判断し、伊式十三粍連装機銃と判断しました。

写真1(『報道寫眞海軍作戦記録大陸編』より)

次に装備時期ですが、航泊日誌の記述から昭和13年4月10日頃、7月4日頃と考えられます。
1.昭和13年4月10日に「十三粍機銃試射ヲ行フ」との記載があり、1基はここで装備されていることが確認できる。
2.同年7月4日に「十三粍機銃打方始ム(試射)」の記載あり。2基目についての記載と考えられる。

最後に装備位置ですが、判明しているのは写真1で分かる1基のみとなっており、第2煙突後方となります。

【 栂 】
栂は写真2にて九三式十三粍連装機銃の周りに防弾板が確認できます。右側にダビットが見えることから第2煙突後方に装備されたものと判断できますが、撮影時期が不明です。そこで、いつ頃の撮影なのかを特定するため、栂の十三粍連装機銃の装備時期について見ていきたいと思います。

写真2(筆者所蔵)

まず、「揚子江部隊所属艦船要目一覧表」から昭和14年11月15日時点で栂が装備していた機銃は下記の通りとなります。
装備機銃:九三式十三粍二連装×2、三年式×1、毘式十二粍×1、毘式七・七粍×2、一一式軽機×2
※本史料では、毘式十二粍が二連装のような書き方がされていますが、「昭和十二年度海軍省年報」に記載されている毘式十二粍単装機銃のことだと考えられます。

次に、九三式十三粍連装機銃がそれぞれいつ装備されたものか航泊日誌や写真を基に整理していきたいと思います。
1.航泊日誌にて、昭和13年2月22日に「13粍機銃ノ試射ヲ行フ」との記載があり、この日あたりで九三式十三粍連装機銃が装備されたと考えられるが、これ以降十三粍機銃が装備されたような記載はなく、この時何基搭載したのかは不明。
2.写真3は昭和13年10月に撮影された栂だが、第2煙突後方に九三式十三粍連装機銃が装備されていることが確認できる。この写真では、他に九三式十三粍連装機銃らしいものは確認できていないため、もし、上記の2月22日に装備されたものが1基であれば第2煙突後方のものがその機銃だと考えられる。
※もう1基の九三式十三粍連装機銃は、写真4にて確認することができます。写真4はONIに掲載されている写真ですが、既に確認できてる第2煙突後方の他に、艦尾付近に1基が確認できます。

写真3(筆者所蔵)
写真4(ONIより)

写真2を見ると、機銃座の手すり部分にキャンバスの紐が見えていることから、防弾板はキャンバスの内側に装着していると考えられます。そのため、写真3では第2煙突後方の機銃座に防弾板を装着していたかが分かりませんが、一番砲後ろの機銃座に防弾板を装着していることから第2煙突後方の機銃座についても防弾板を装着していた可能性が高いと考えています。

【 蓮 】
蓮の十三粍機銃連装機銃と防弾板を写した写真として、写真5があります。
若竹型として紹介されている写真ですが、下記の理由から蓮であると判断しました。
①十二糎砲が新式防盾であるため、若竹型を含む薄以降の艦であると考えられる
②機銃の装備位置が一番砲後方となっているのは、十二糎砲が旧式防盾の樅~栂まで
③上記①②は該当する艦の範囲が被っていないが、戦後の蓮の写真にて一番砲後方に機銃座を設けて十三粍連装機銃が装備されていたことが確認できおり、どこかのタイミングで機銃座を新設したと考えられる
④支那事変中に十三粍連装機銃の搭載が確認できている艦の内、新式防盾は蓮のみ

写真5(丸 Graphic Quartery 「写真集 日本の駆逐艦(続)」より)

次にいつ頃の写真なのかについてですが、「揚子江部隊所属艦船要目一覧表」によると、昭和14年11月15日時点で蓮が装備していた機銃は下記の通りです。
装備機銃:九三式十三粍二連装×2、三年式×2、毘式七・七粍×2、一一式軽機×2

写真5に写る十三粍連装機銃は、後述する通り九三式ではなく伊式ですが、航泊日誌の記載を基に、装備機銃の変遷を下記にまとめます。
1.昭和13年5月28日に「十三粍機銃試射ヲ行フ」との記載があり、この日周辺で十三粍機銃を装備したと考えられる。
2.同年6月30日に「九洲丸横付シ十三粍機銃搭載ス」との記載あり。この時点で2基の十三粍機銃が装備されていたことになる。
3.同年7月2日に「後部十三粍右岸ノ残敵ヲ猛射ス、新十三粍試射ヲナス」との記載あり。
4.同年11月21日に「照徳丸右舷ニ横付ケス(前部十三粍機銃ヲ九三式機銃ニ取換ウ)」との記載から、この記載から7月2日に搭載された「新十三粍」とは伊式のことだったと判断できる。

以上の航泊日誌の記載から写真5は伊式十三粍連装機銃が装備されてから九三式十三粍連装機銃に換装される、昭和13年6月30日~11月21日の間に撮影されたと考えられます。また、終戦時の蓮にて確認できる一番砲後方の機銃座は、支那事変中に設けられたものであると考えられます。
航泊日誌には、昭和14年2月22日に艦橋付近の防弾板以外は取り外す旨が記載されているため、一番砲後方の機銃座にずっと防弾板が装着されていたとしても、この時には取り外されたと考えられます。

【 伊式十三粍連装機銃について 】
栗と蓮にて装備されたとしている伊式十三粍連装機銃は、詳しい形状が分からなかったため、以下の流れで判断しました。
1.十三粍連装機銃であることは判明していたため、「機銃型別一覧」という史料にて十三粍連装機銃の洗い出しを行い、以下の3種であることを確認。
・保式
・九三式
・伊式
2.「各種機銃縮図」より、写真1、写真5が保式、九三式ではないことを確認。
3.「機銃型別一覧」にて伊式を装備しているとされる沖島にて写真6を確認。
4.「揚子江部隊所属艦船要目一覧表」にて伊式を装備したとされる安宅にて、写真7を確認し、沖島の写真と合わせて伊式十三粍連装機銃のおおよその形状を把握。
※保式と合わせて3基装備しているが、そのうち2基は昭和12年の性能改善工事の際に艦橋の両側に装備された保式十三粍連装機銃のため、消去法で艦尾に装備された十三粍連装機銃が伊式と判断。
5.栗や蓮で確認できる写真が伊式十三粍連装機銃の形状と近いと判断し、装備機銃を伊式十三粍連装機銃と判断。

■沖島

写真6(丸スペシャル NO42「敷設艦のすべて」より)

■安宅

写真7(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ45 『真実の艦艇史』より)
※PhotoBankにてより詳細が確認できる写真あり。
①2023.08.20確認(https://photobank.mainichi.co.jp/kiji_detail.php?id=P19950728dd1dd3phj602000
②2023.08.20確認(https://photobank.mainichi.co.jp/kiji_detail.php?id=P19950726dd1dd6phj491000

 

参考文献・参考資料
・「揚子江部隊所属艦船要目一覧表」(2023.08.20確認).
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F2015010515344062000&ID=M2015010515344162006&REFCODE=C14120672800
・「機銃型別一覧」(防衛研究所所蔵).
・「各種機銃縮図」(筆者所蔵).
・国際報道株式會社(1944)『報道寫眞海軍作戦記録大陸編』国際報道株式會社.
・「昭和十二年度海軍省年報」(『戦史叢書31 海軍軍戦備<1>』付録)
・田村俊夫(2004)「揚子江砲艦隊の旗艦『安宅』の兵装と知られざる戦後秘話」(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ45 『真実の艦艇史』)学習研究社.
・田村俊夫(2007)「43号・45号・51号の補遺と訂正」(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ57 『帝国海軍 艦載兵装の変遷』)学習研究社.
・(1980) 丸スペシャル 『敷設艦のすべて』株式会社潮書房.
・福井静夫(1994)『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ.
・(1974) 丸 Graphic Quartery 「写真集 日本の駆逐艦(続)」株式会社潮書房.
・岩重多四郎(2019) 『日本海軍小艦艇ビジュアルガイド 駆逐艦編(増補改訂版)』大日本絵画.

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