【 弥生 】
弥生は、「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』に掲載されている、昭和12年に揚子江で撮影された写真にて、羅針艦橋に防弾板が装着されていることが確認できます。
写真1(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』より)
■装着個所:羅針艦橋
【 卯月 】
卯月は、航泊日誌で羅針艦橋に防弾板を装着していることが確認できます。
以下に、航泊日誌から防弾板関係の記載を下記に抜き出します。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和13年
・9月19日:艦橋防弾装置ヲナス
・9月20日:艦橋防弾装置完成
・10月2日:防弾鈑ヲ取除ク
——————————————————–
■装着個所:羅針艦橋
【 皐月 】
皐月は、写真1で防弾板の装着が確認でき、その装着場所は2から4番砲砲座と艦尾の舷側、機銃台に確認できます。
写真2(ONIより)
■装着個所:機銃台、2~4番砲砲座、舷側
【 水無月 】
水無月は、「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』に掲載の昭和13年9月に撮影された写真にて、防弾板の装着が確認できます。その装着場所は羅針艦橋と射撃指揮所、機銃台、1から4番砲の砲座です。
写真3(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』より)
■装着個所:羅針艦橋、射撃指揮所、機銃台、1~4番砲砲座
【 長月 】
長月は写真4にて、羅針艦橋と1番砲砲座、艦首に防弾板を装着していることが確認できます。
写真4(筆者所蔵)
■装着個所:羅針艦橋、1番砲砲座、舷側(艦首)
【 菊月 】
菊月は、航泊日誌と写真で防弾板の装着が確認できています。
まず、航泊日誌の方から見てみると、
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月12日:防弾板取付方・防弾板収メ方
・8月14日:防弾板取付方
・8月21日:防弾板取付ケ方
・8月22日:防弾板取付ケ方
・9月22日:指揮所鋼板マンドレッドニ成ス
・10月31日:防弾板ヲ取外ス
・11月12日:防弾板取付方
——————————————————–
となり、航泊日誌からは装着場所が分かりません。
次に写真ですが、「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』に掲載されている写真にて、羅針艦橋、射撃指揮所、2~4番砲砲座に装着されていることが確認できます。
写真5(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』より)
写真5は昭和12年10月頃の撮影とされていますが、指揮所の防弾板があることから9月22日までの撮影と考えられます。
そして、それぞれどのタイミングで装着されたかですが、8月18日撮影の写真6にて羅針艦橋にのみ防弾板が装着されていることを確認できます。そのため、8月12日の装着場所は不明ですが、2日後の14日の装着場所は羅針艦橋で、8月21、22日の2日間で射撃指揮所、2~4番砲砲座に防弾板を装着したと考えられます。
写真6(「支那事變畫報」第4輯より)
■装着個所:羅針艦橋、射撃指揮所、2~4番砲砲座
【 三日月 】
三日月も菊月と同様に、航泊日誌と写真で防弾板の装着が確認できます。航泊日誌によると防弾板の装着状況は下記のようになっています。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月21日:艦橋周囲ニ防弾鈑装着(不足ノ分)
・10月31日:防弾板取外ス・取外終了
・11月12日:防弾鈑及マンドレッド装着ヲナス
・11月15日:防弾鈑撤去
——————————————————–
次に写真ですが、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』に掲載されている写真7にて、羅針艦橋と射撃指揮所、機銃台、舷側、1から4番砲砲座に装着していることが確認できます。写真6は昭和12年8月撮影のため、航泊日誌では、装着場所が艦橋周囲としか分かりませんでしたが、具体的にいつ装着されたかは分からないものの、1から4番の各砲座にも装着されていたことが分かります。11月は防弾板が装着されたことだけで、どこに装着されたかは不明です。
写真7(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)
■装着個所:羅針艦橋、射撃指揮所、機銃台、舷側、1~4番砲砲座
【 望月 】
望月は、下記の写真8で防弾板の装着が確認できます。
この後、同じ第23駆逐隊の艦と同じように他の個所へも防弾板を装着した可能性もありますが、現時点では羅針艦橋のみの装着しか確認できていません。
写真8(「アサヒグラフ」1937年9月8日号より)
■装着個所:羅針艦橋
【 夕月 】
夕月も、航泊日誌と写真で防弾板の装着が確認できますが、まず最初に航泊日誌の方から見てみると下記のようになります。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月19日:右舷防弾装置
・8月22日:各部ノ防弾板装置ヲ厳ニス
・10月31日:防弾板取外ス
・11月10日:防弾板取付方
・11月22日:防弾板取外シ方
——————————————————–
次に写真の方を見てみると、「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』に掲載されている写真9で、羅針艦橋、射撃指揮所、右舷舷側、1番砲砲座に防弾板が確認できます。昭和12年の10月の撮影とされ、右舷の舷側に装着されている防弾板は航泊日誌に記載されているように、8月19日に装着されたものと考えられます。
写真9(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』より)
上述の右舷舷側以外の羅針艦橋や射撃指揮所、1番砲砲座に防弾板がいつ装着されたのかですが、写真10にて羅針艦橋のみに装着されていることが確認できています。写真10は8月18日に撮影されたもので、航泊日誌には記載がありませんが、同じ駆逐隊の菊月や三日月同様8月18日以前には羅針艦橋へ装着されていたことになります。そのため、射撃指揮所や1番砲砲座への装着は8月22日と考えられます。
写真10(「アサヒグラフ」1937年9月8日号より)
また、写真9と同時期に撮影された写真11では、機銃台に防弾板が確認できます。
第十一良友丸に横付けしているところで、航泊日誌によると10月12日のことのようです。
写真9では不鮮明で、機銃台の防弾板の有無がはっきりしませんが、航泊日誌の記載を基にすると、射撃指揮所や砲座と同様に、8月22日に装着されたものと考えられます。
写真11(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』より)
■装着個所:羅針艦橋、射撃指揮所、機銃台、舷側、1番砲砲座
※舷側は写真9を基に記載(実際は右舷)
参考文献・参考資料
・福井静夫(1994)『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ.
・(2008)「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64『睦月型駆逐艦』学習研究社.
・朝日新聞社(1937)「支那事變畫報」第4輯.
※写真5は毎日新聞社のPhotoBankにてきれいな写真が見れます。(2023.07.22確認)
https://photobank.mainichi.co.jp/kiji_detail.php?id=P20141023dd1dd1phj535000
・朝日新聞社「アサヒグラフ」(1937年9月8日号).
・各航泊日誌.