特型の防弾板装着について、第4水雷戦隊事変日誌に記載の下記命令が出ています。
この命令は、第2警戒部隊がそれまでの1水戦から4水戦に変わったタイミングで出されたもので、対象は特型でいうと、第6駆、第10駆の2駆逐隊です。
13年2月にも命令が出されいますが、同じ内容です。
他の駆逐隊については、防弾板装着の命令は確認できていませんが、全体通して防弾板の装着個所が同じ羅針艦橋と機銃台であることから、同様の命令が出ていたと思われます。
■命令内容 ※必要個所のみ抜粋
・12年12月4日:
機密中支第二警戒部隊命令第一號 第二警戒部隊命令 一、當部隊不慮警戒實施規程別紙ノ通定ム 機密中支第二警戒部隊命令第一號別紙 第二警戒部隊不慮警戒實施規程 第二通則 六.警戒ニ関シ各隊艦ハ概ネ左ノ標準ニ従ヒ兵器弾薬機関等ノ準備或ハ整備ヲ行フモノトス
(三)防弾板 特令アル迄艦橋、機銃台及軽質油庫附近ニ防弾鈑ヲ装着ス
・13年2月24日:
機密中支第二警戒部隊命令第一號 第二警戒部隊命令 一、當部隊不慮警戒實施規程別紙ノ通定ム 機密中支第二警戒部隊命令第一號別紙 第二警戒部隊不慮警戒實施規程
(三)防弾鈑 艦橋機銃台及軽質油庫附近等ニ防弾鈑ヲ装着ス
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【 敷波 】
敷波は航泊日誌と写真で防弾板を装着していたことが確認できます。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月24日:防弾板ヲ取外ス
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上記の通り、航泊日誌の記載では、防弾板の装着場所までは分かりません。
次に写真ですが、8月23日の第三師団揚陸掩護の際に撮影された写真1にて、機銃台に防弾板を装着していることが確認できます。
8月24日に取り外していることから、8月23日の第三師団揚陸掩護に向けて装着されたものと考えられます。また、同作戦に参加した他の艦同様、羅針艦橋にも装着された可能性も考えられますが、現時点では確認できていないため、敷波の防弾板装着個所を機銃台としました。
写真1(筆者所蔵)
■装着個所:機銃台
【 朝霧 】
写真2は昭和12年8月23日に撮影された朝霧で、羅針艦橋と機銃台に防弾板を装着していることが確認できます。
写真2(『支那事変 記念写真帳』より)
■装着個所:羅針艦橋、機銃台
【 夕霧 】
夕霧は写真と航泊日誌にて防弾板の装着が確認できるため、まずは写真から見ていきます。
下掲の写真3は、昭和12年8月22日に撮影されたもので、羅針艦橋と機銃台に防弾板が装着されていることが確認できます。
写真3(筆者所蔵)
次に航泊日誌の記載ですが、下記が防弾板関連の記載を抜き出したものになります。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月22日:艦橋防弾板ヲ装着ス
・8月24日:艦橋防弾板卸ス
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航泊日誌の記載内容からは機銃台への装着が確認できませんが、羅針艦橋の防弾板は8月22日装着されたものということが分かります。
以上から、夕霧の防弾板の装着個所は羅針艦橋と機銃台となります。
■装着個所:羅針艦橋、機銃台
【 天霧 】
天霧は、航泊日誌にて防弾板の装着が確認でき、その部分を下記に抜き出します。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月22日:艦橋防弾板取付ケ
・9月8日:艦橋防弾板装着
・9月10日:艦橋防弾板ノ卸シ方
・9月19日:艦橋防弾板装着・艦橋防弾板装着装着終ワリ
・9月24日:艦橋防弾板卸方
・10月7日:艦橋防弾板装着
・10月11日:艦橋防弾板卸方始ム・艦橋防弾板卸方終リ
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以上から確認できる装着場所は羅針艦橋のみであることが確認できます。
よって、天霧の装着個所は羅針艦橋のみとします。
■装着個所:羅針艦橋
【 狭霧 】
狭霧が防弾板を装着していることは、航泊日誌にて確認することができます。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・12月18日:防弾板取付始ム
・12月22日:防弾板取付始ム・防弾板取付
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狭霧が防弾板を装着したのは、時期から見ても「第二警戒部隊参考」に記載しているように、第二警戒部隊の命令によるものと考えられます。
その命令で示されている防弾板の装着場所とは、羅針艦橋と機銃台、軽質油庫の3か所ですが、「駆逐艦の防弾板装着位置まとめ」に記載の通り、特型で確認できている装着個所は、羅針艦橋と機銃台の2か所です。
よって、装着した順番は不明ですが、22日には羅針艦橋と機銃台の2か所に装着されていたと考えられます。
■装着個所:羅針艦橋、機銃台
【 朧 】
朧も、防弾板の装着について航泊日誌から確認できます。
防弾板の装着場所についての記載を下記に抜き出します。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月22日:艦橋○面ニ防弾鉄板ハル
・8月25日:艦橋防弾鉄板ヲ取外ス
・9月5日:艦橋防弾鉄板ヲ装着
・9月13日:艦橋前部防弾鉄板ヲ撤ス
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以上のことから、防弾板は羅針艦橋にのみ装着されていたことが分かります。
■装着個所:羅針艦橋
【 漣 】
漣は、同じ第十駆逐隊の狭霧と近い時期に防弾板を装着していることが、下記の航泊日誌の記載から確認できます。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・12月8日:防弾板取付作業
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装着場所に関しては何も記載されておらず、漣が防弾板を装着している写真を確認できていないため、装着場所は不明ですが、第二警戒部隊の命令や「駆逐艦の防弾板まとめ」の表から羅針艦橋と機銃台のどちらかか両方であると考えられます。
■装着個所:羅針艦橋か機銃台、またはその両方
【 潮 】
潮は、航泊日誌から防弾板の装着が確認できます。
下記に航泊日誌の防弾板に関する記載を抜き出します。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月22日:艦橋ニ防弾鈑ヲ取付ケス
・8月25日:艦橋防弾鈑ヲ卸ス
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以上のことから、防弾板を羅針艦橋へ装着していることが分かります。
■装着個所:羅針艦橋
【 暁 】
暁ですが、「歴史群像」太平洋戦史シリーズ18水雷戦隊Ⅰ『 特型駆逐艦』に掲載されている、13年の南京において撮影された写真で、羅針艦橋に防弾板が装着されているのが確認できます。
写真4(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ18水雷戦隊Ⅰ『 特型駆逐艦』より)
■装着個所:羅針艦橋
【 響 】
響は、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』に掲載されている、昭和12年12月上旬に揚子江で撮影された写真5にて、羅針艦橋に防弾板が装着されていることが確認できます。
写真5(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)
■装着個所:羅針艦橋
【 雷 】
現在、雷が防弾板を装着していることを確認できているのは写真のみとなっています。
写真6と写真7は、どちらも上海で撮影されたもので、写真6では機銃台に、写真7では羅針艦橋に防弾板の装着が確認できます。羅針艦橋と機銃台は同じタイミングでの装着が確認できているわけではないですが、雷が所属する第六駆逐隊は、昭和12年12月4日に機密中支第二警戒部隊命令第一號 第二警戒部隊命令によって、艦橋や機銃台へ防弾板を装着することとなっているため、同時に装着していたと考えられます。
写真6(筆者所蔵)
写真7(UWM Librariesより)
■装着個所:羅針艦橋、機銃台
【 電 】
電は写真7にて、羅針艦橋へ防弾板を装着していることが確認できるため、防弾板の装着個所は羅針艦橋とします。
■装着個所:羅針艦橋
参考文献・参考資料
・ UWM Libraries (2021.09.29確認).
(https://collections.lib.uwm.edu/digital/collection/agsphoto/id/14531)
・支那事変 功績便覧(2021.09.26確認).
(https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?LANG=default&REFCODE=C14120642800&BID=F2015010515342461705&ID=&NO=1&TYPE=PDF&DL_TYPE=pdf)
・(1998)「メカニックス」(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ19『陽炎型駆逐艦』)学研パブリッシング.
・福井静夫(1994)『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』ベストセラーズ.
・大阪毎日新聞社(1937)『支那事変 記念写真帳』
・各航泊日誌、事変日誌