白露型

第二駆逐隊

村雨
昭和12年
・7月22日~27日:船団護衛
・8月13日~23日:上海確保戦
・8月23日:十一師団揚陸掩護
・8月24日~10月15日:上海対峙戦
・11月2日~10日:杭州湾上陸作戦
昭和13年
・8月26日~9月2日:M作戦
・9月18日~10月30日:漢口攻略戦(後)

夕立
昭和12年
・7月22日~27日:船団護衛
・8月13日~23日:上海確保戦
・8月23日:十一師団揚陸掩護
・8月24日~10月15日:上海対峙戦
・11月2日~14日:杭州湾上陸作戦
昭和13年
・8月26日~9月7日:M作戦
・9月18日~10月30日:漢口攻略戦(後)

五月雨
昭和12年
・7月22日~27日:船団護衛
・8月13日~23日:上海確保戦
・8月23日:十一師団揚陸掩護
・8月24日~10月15日:上海対峙戦
・11月11日~14日:杭州湾上陸作戦
昭和13年
・9月18日~10月30日:漢口攻略戦(後)

春雨(昭和12年8月26日に竣工後、第二駆逐隊へ編入)
昭和12年
・8月28日~10月15日:上海対峙戦
・11月2日~14日:杭州湾上陸作戦
昭和13年
・9月18日~10月30日:漢口攻略戦(後)
———————————–

第九駆逐隊

白露
昭和12年
・7月22日~27日:船団護衛
・8月13日~22日:上海確保戦
・8月23日:十一師団揚陸掩護
・8月24日~10月15日:上海対峙戦
・11月3日~14日:杭州湾上陸作戦
昭和13年
・8月26日~9月15日:M作戦
昭和14年
・6月20日~25日:汕頭攻略戦
・6月26日~7月9日:福州閉塞戦
・7月11日~20日:南支機雷閉塞戦

時雨
昭和12年
・7月22日~27日:船団護衛
・8月13日~22日:上海確保戦
・8月23日:十一師団揚陸掩護
・8月24日~10月15日:上海対峙戦
・11月3日~14日:杭州湾上陸作戦
昭和13年
・8月26日~9月15日:M作戦
昭和14年
・6月20日~22日:汕頭攻略戦
———————————

第二十四駆逐隊

海風
昭和12年
・8月23日:十一師団揚陸掩護
・8月24日~9月15日:上海対峙戦
・12月4日~16日:南京攻略戦
昭和13年
・8月26日~9月15日:M作戦
・9月16日~10月30日:漢口攻略戦

江風
昭和12年
・8月23日:十一師団揚陸掩護
・8月24日~9月15日:上海対峙戦
・12月4日~16日:南京攻略戦
昭和13年
・8月26日~9月15日:M作戦
・9月16日~10月30日:漢口攻略戦

山風
昭和12年
・7月25日~29日:船団護衛
・8月23日:十一師団揚陸掩護
・8月24日~9月15日:上海対峙戦
・12月4日~16日:南京攻略戦
昭和13年
・8月26日~9月15日:M作戦
・9月16日~10月30日:漢口攻略戦

涼風
昭和12年
・9月3日~15日:上海対峙戦
・12月4日~16日:南京攻略戦
昭和13年
・8月26日~9月15日:M作戦
・9月16日~10月30日:漢口攻略戦

 

参考資料
・「駆逐艦の部(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14120643700、支那事変 功績便覧(防衛省防衛研究所所蔵)(2023.10.22確認)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C14120643700
・「駆逐艦の部(2)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14120643800、支那事変 功績便覧(防衛省防衛研究所所蔵)(2023.10.22確認)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C14120643800

白露型の防弾装置

白露型は第1水雷戦隊の事変日誌にて、防弾板装着に関する命令や状況を確認することができます。
また、上記事変日誌における対象の駆逐隊は第2駆、第9駆の2駆逐隊です。
命令として確認できるのは、昭和12年7月19日が最初ですが、7月13日には既に機銃台に防弾板の装着が完了されているため、それより前に別の命令が出されていた可能性があります。
そして、8月9日に出された命令にて装着が指示されていますが、7月13日に機銃台に防弾板が装着されているため、この命令で装着する場所としては機銃台以外の場所と考えられます。
下掲の写真1は、12年8月に中国方面へ進出するため、佐世保を発った時の村雨の写真です。後述の通り、村雨は羅針艦橋と機銃台に防弾板が装着されましたが、写真1では機銃台のみで羅針艦橋への装着は確認できません。

■記載内容 ※必要個所のみ抜粋
・12年7月13日:
略午前中ニ各種物件ノ搭載ヲ了シ夕刻迄ニ川内十三粍機銃ノ装備、川内及各駆逐隊ノ機銃台附近防弾鈑ノ装着ヲ了ス 
・12年7月19日:
機密一水戦命令第六五號別紙第一 第一水雷戦隊不慮警戒實施要領
第一通則 二.各隊艦ハ左ノ標準ニ従ヒ兵器等ノ準備ヲ行フベシ
(四)機銃台附近ノ防弾鈑ヲ装着ス
・12年8月9日:
一水戦宛左記信令ヲ發令ス 信令第一〇二號 二.各隊ハ揚子江到着迄ニ左記ヲ完成シ置クベシ
(ハ)防弾鈑ヲ装着ス
・12年10月14日:
機密二警第二封鎖部隊命令第一號 第二封鎖部隊命令 附令 當部隊限リ機密一水戦命令第六五號別紙第一、第一水雷戦隊不慮警戒實施要領ノ適用ヲ止ム 
機密二警第二封鎖部隊命令第一號別紙 第二封鎖部隊不慮警戒實施規程
第二通則 六.警戒ニ関シ各隊艦ハ概ネ左ノ標準ニ従ヒ、兵器弾薬機関等ノ準備或ハ整備ヲ行フモノトス  
(三)防弾板 特令アル迄艦橋、機銃台及軽質油庫附近ニ防弾鈑ヲ装着ス 

写真1(筆者所蔵)

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【 白露 】

白露は、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』や『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集 17』に掲載されている昭和12年10月頃呉淞で撮影とされる写真1にて、機銃台に防弾板が装着されていることは確認できますが、写真が不鮮明で、羅針艦橋に防弾板が確認できないため、装着個所は機銃台のみの装着とします。

写真2(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:機銃台

 

【 時雨 】

時雨は下掲のONIの写真の他、海軍省発行の『支那事變記念寫眞帖』に掲載されている写真で、機銃台に防弾板を装着していることが確認できます。

写真3(ONIより)

■装着個所:機銃台

 

【 村雨 】

村雨が防弾板を装着している姿は、雑誌「海と空」昭和16年10月号に掲載されている写真にて羅針艦橋と機銃台に装着していることが確認できます。

写真4(「海と空」16年10月号より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

【 夕立 】

夕立は、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』に昭和12年8月から11月に撮影された写真が掲載されており、羅針艦橋と機銃台に防弾板が装着されていることが確認できます。

写真5(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

【 春雨 】

春雨は、「歴史群像」太平洋戦史シリーズ19 『陽炎型駆逐艦』に掲載されている写真5にて、羅針艦橋と機銃台に防弾板が確認できます。

写真6(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ19 『陽炎型駆逐艦』より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

【 五月雨 】

五月雨は、写真6にて羅針艦橋と機銃台、軽質油庫に防弾板が装着されていることが確認できます。
「日本駆逐艦史」(1992)や『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集』等にも同じ写真が掲載されており、昭和12年8月22日撮影とされています。

写真7(筆者所蔵)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台、軽質油庫

 

【 山風 】

山風は航泊日誌と写真にて防弾板の装着が確認できます。
まずは、航泊日誌から防弾板関係の記載を抜き出してみると下記のようになります。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・9月13日:防弾鈑装着ヲナス
・11月1日:防弾板装着
・11月4日:防弾板ヲ収ム
・12月4日:防弾板ヲ装着ス
・12月9日:防弾板装着ヲナス
昭和13年
・6月15日:防弾板装着準備
・6月26日:防弾板装着
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上記の通り、航泊日誌では防弾板の装着撤去は確認できても、防弾板の装着位置までは分かりません。
そこで、「駆逐艦の防弾板まとめ」に掲載している表1を見てみると、白露型の装着位置は羅針艦橋と機銃台になっています。
そのため、少なくとも2回以上の防弾板の装着が確認できている期間は、羅針艦橋と機銃台の両方に装着されていたと考えられます。また、山風は、「日本駆逐艦史」(2013)に掲載されている写真8にて、昭和12年8月23日時点で羅針艦橋に防弾板が装着されていることが確認できます。

写真8(「日本駆逐艦史」より)

よって、航泊日誌に記載されている9月13日に装着された防弾板は機銃台へ装着されたものと考えられ、それが写真9で確認できます。やや不鮮明ですが、この時羅針艦橋にも防弾板が装着されていたと考えられます。
また、航泊日誌上では、11月1日にも防弾板が装着されていて追加で防弾板が装着されているように見えますが、9月16日に一度佐世保へ戻っており、ここで一度防弾板が撤去されている可能性が高く、11月1日に装着した防弾板は、追加装着ではなく再装着ではないかと考えています。

写真9(『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集 17』より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

【 涼風 】

涼風も航泊日誌にて防弾板の装着が確認できるため、その部分を航泊日誌から抜き出してみます。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・12月4日:防弾板ヲ設置ス
・12月31日:防弾板ヲ収ム
昭和13年
・12月7日:防弾鈑ヲ撤去ス
昭和15年
・9月21日:艦橋防弾板取付
・9月26日:防弾板ヲ離ナス
——————————————————–
昭和15年は羅針艦橋のみの装着となっており、昭和12年、13年の装着個所は分かませんが、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』に羅針艦橋と機銃台に防弾板が装着されていることが確認できます。

写真10(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

参考文献・参考資料
・朝日新聞社(1937)「支那事變畫報」第7輯.
・福井静夫(1994)『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』ベストセラーズ. 
・(1992)「日本駆逐艦史」『世界の艦船』1992年7月号増刊No,453海人社.
・(2012)「日本駆逐艦史」『世界の艦船』2013年1月号増刊No,772海人社. 
・雑誌「丸」編集部(1997)『初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』(ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17)光人社. 
・海と空社(1941)「海と空」10月号.
・各航泊日誌、事変日誌

第二警戒部隊と防弾板

今まで、航泊日誌や写真を中心に見てきましたが、事変日誌でも防弾板について少しだけ記載があります。各型のところでは書けなかったのでこちらでまとめて書こうと思います。

中支部隊の中の第二警戒部隊は12年8月8日から11月20日まで第一水雷戦隊(第二、九、二十一駆逐隊)。12年11月30日からは第四水雷戦隊(第六、十駆逐隊)になります。
防弾板の装着に関する個所を抜き出してみると、
・12年7月13日:略午前中ニ各種物件ノ搭載ヲ了シ夕刻迄ニ川内十三粍機銃ノ装備、川内及各駆逐隊ノ機銃台附近防弾鈑ノ装着ヲ了ス 
・12年7月19日:機密一水戦命令第六五號別紙第一 第一水雷戦隊不慮警戒實施要領 第一通則 二.各隊艦ハ左ノ標準ニ従ヒ兵器等ノ準備ヲ行フベシ (四)機銃台附近ノ防弾鈑ヲ装着ス
・12年8月9日:一水戦宛左記信令ヲ發令ス 信令第一〇二號 二.各隊ハ揚子江到着迄ニ左記ヲ完成シ置クベシ (ハ)防弾鈑ヲ装着ス
・12年10月14日:機密二警第二封鎖部隊命令第一號 第二封鎖部隊命令 附令 當部隊限リ機密一水戦命令第六五號別紙第一、第一水雷戦隊不慮警戒實施要領ノ適用ヲ止ム 
機密二警第二封鎖部隊命令第一號別紙 第二封鎖部隊不慮警戒實施規程 第二通則 六.警戒ニ関シ各隊艦ハ概ネ左ノ標準ニ従ヒ、兵器弾薬機関等ノ準備或ハ整備ヲ行フモノトス  (三)防弾板 特令アル迄艦橋、機銃台及軽質油庫附近ニ防弾鈑ヲ装着ス 
・12年12月4日:機密中支第二警戒部隊命令第一號 第二警戒部隊命令 一、當部隊不慮警戒實施規程別紙ノ通定ム 機密中支第二警戒部隊命令第一號別紙 第二警戒部隊不慮警戒實施規程 第二通則 六.警戒ニ関シ各隊艦ハ概ネ左ノ標準ニ従ヒ兵器弾薬機関等ノ準備或ハ整備ヲ行フモノトス (三)防弾板 特令アル迄艦橋、機銃台及軽質油庫附近ニ防弾鈑ヲ装着ス 
・13年2月24日:機密中支第二警戒部隊命令第一號 第二警戒部隊命令 一、當部隊不慮警戒實施規程別紙ノ通定ム 機密中支第二警戒部隊命令第一號別紙 第二警戒部隊不慮警戒實施規程 (三)防弾鈑 艦橋機銃台及軽質油庫附近等ニ防弾鈑ヲ装着ス 

上記の情報を整理すると、12年7月13日時点で第一水雷戦隊所属の駆逐艦は、機銃台に防弾板を装着し、7月19日でその状態が標準となります。
そして、8月9日に出た防弾板の装着指示ですが、この時点では機銃座には防弾板が装着されていたため、機銃台以外への装着と考えられます。
10月14日には、新たに命令が出されたため、7月19日の命令が適用されなくなります。その10月14日の命令には、防弾板の装着場所の標準として先の命令で指定されていた機銃座の他に艦橋が追加されています。
12月4日に出されたものは、内容的には10月14日に出された命令と変わらないですが、再度出された理由としては、第一水雷戦隊に代わって、第四水雷戦隊が第二警戒部隊となったためと考えられます。

次に航泊日誌の内容と照らし合わせてみます。
第一水雷戦隊
・初春
12年7月15日:一部艦橋防弾鈑取付ケ方
7月22日:機銃台ノ防弾鈑卸方
8月2日:前甲板ニ防弾板用意
8月11日:各部ノ防弾鈑取付ケ作業
8月27日:艦橋防弾鈑作業
11月8日:防弾鈑撤去
・若葉
12年7月14日:始業防弾板取付方
8月11日防弾板を取付ク

第四水雷戦隊
・狭霧
12年12月18日:防弾板取付始ム
12月22日:防弾板取付始ム・防弾板取付
・漣
12年12月8日:防弾板取付作業

第四水雷戦隊は、12月4日に出された命令に従って、各々のタイミングで装着されたと考えられ、どちらも装着場所が不明となっていますが、命令の内容で指示された場所と、「駆逐艦の防弾板まとめ」にて掲載した表から機銃座と羅針艦橋の両方かどちらかに装着されたと考えられます。
第一水雷戦隊の方ですが、7月13日に各艦機銃座の防弾板の装着を完了したと書いてありますが、現在、7月13日に機銃座に装着したことが確認できる史料がなく、推定ではありますが、若葉が機銃座に装着したと思われる時期が7月14日であり、全艦が13日に装着したわけではないようです。

参考文献・参考資料
・各事変日誌