神風型

第五駆逐隊

旗風
昭和12年
・9月3日:厦門砲台砲撃
・10月25日~29日:金門島攻略作戦
昭和14年
・11月13日~19日:南寧攻略戦

春風
昭和12年
・9月3日:厦門砲台砲撃
・10月25日~29日:金門島攻略作戦
昭和14年
・11月13日~17日:南寧攻略戦

朝風
昭和12年
・9月14日:厦門砲台砲撃
・10月25日~29日:金門島攻略作戦
昭和14年
・2月8日~18日:海南島攻略戦
・6月20日~22日:汕頭攻略戦
・6月27日~7月10日:温州閉塞戦
・11月13日~15日:南寧攻略戦

松風
昭和12年
・9月3日:厦門砲台砲撃
・10月25日~29日:金門島攻略作戦
・11月10日:厦門砲台砲撃
昭和14年
・2月8日~18日:海南島攻略戦
・6月20日~22日:汕頭攻略戦
・6月27日~7月10日:温州閉塞戦
・11月13日~15日:南寧攻略戦
———————————

第二十八駆逐隊

朝凪
昭和14年
・1月5日~10日:海南海峡設標
・2月8日~18日:海南島攻略戦
・4月15日~17日:博鰲港攻略戦
・6月20日~21日:汕頭攻略戦
・10月23日~27日:北海港偵察
・11月13日~19日:南寧攻略戦

夕凪
昭和14年
・2月8日~18日:海南島攻略戦
・4月15日~17日:博鰲港攻略戦
・6月20日~25日:汕頭攻略戦
・11月13日~19日:南寧攻略戦
———————————

第二十九駆逐隊

追風
昭和12年
・8月17日~28日:南支邦人引揚
・9月14日:敵艦及虎門砲撃
昭和14年
・1月30日~2月18日:海南島攻略戦

疾風
昭和12年
・8月17日~28日:南支邦人引揚
・9月14日:敵艦及虎門砲撃
昭和14年
・1月30日~2月18日:海南島攻略戦

 

参考資料
・「駆逐艦の部(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14120643700、支那事変 功績便覧(防衛省防衛研究所所蔵)(2023.10.22確認)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C14120643700
・「駆逐艦の部(3)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14120643900、支那事変 功績便覧(防衛省防衛研究所所蔵)(2023.10.22確認)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C14120643900

峯風型

第三駆逐隊

汐風
昭和12年
・9月4日~7日:通信艦
・9月12日~15日:通信艦
・9月20日~23日:通信艦
・9月27日~30日:通信艦
・10月2日~5日:通信艦
・10月18日~21日:通信艦
・10月26日~29日:通信艦
・11月3日~6日:杭州湾上陸
昭和13年
・5月3日~5月13日:厦門島攻略戦
・6月20日~24日:南澳島攻略作戦
・7月14~25日:南澳島掃討
・10月9日~29日:広東攻略戦

島風
昭和12年
・9月10日~12日:通信艦
・9月15日~18日:通信艦
・9月18日~21日:通信艦
・9月24日~27日:通信艦
・10月10日~13日:通信艦
・10月30日~11月2日:通信艦
・11月7日~10日:通信艦
昭和13年
・5月3日~5月13日:厦門島攻略戦
・6月20日~24日:南澳島攻略作戦
・7月14日~25日:南澳島掃討
・10月9日~29日:広東攻略戦

灘風
昭和12年
・9月8日~12日:通信艦
・9月15日~18日:通信艦
・9月18日~23日:通信艦
・9月29日~10月2日:通信艦
・10月14日~18日:通信艦
・10月26日~29日:通信艦
・11月3日~6日:通信艦
昭和13年
・5月3日~5月13日:厦門島攻略戦
・6月20日~24日:南澳島攻略作戦
・7月14日~25日:南澳島掃討
・10月9日~29日:広東攻略戦

夕風
昭和12年
・8月25日~27日:通信艦
・8月31日~9月2日:通信艦
・9月7日~13日:通信艦
・9月16日~18日:通信艦
・9月23日~24日:通信艦
・10月6日~8日:通信艦
・10月22日~24日:通信艦
・10月31日~11月3日:通信艦
・11月11日~14日:通信艦
———————————–

第四駆逐隊

太刀風
昭和12年
・8月22日~26日:通信艦

秋風
記載なし

羽風
記載なし
———————————–

単独艦

峯風
昭和13年
・1月1日~10日:通信艦
・1月29日~31日:通信艦
・2月8日~10日:通信艦
・2月23日~26日:通信艦
・3月16日~18日:通信艦
・3月23日~31日:通信艦
・8月15日~26日:航空作戦(漢口)
昭和14年
・1月13日~18日:艦船護送
・11月5日~8日:香口鎮掃討

沖風
昭和13年
・8月15日~26日:航空作戦(漢口)

矢風
昭和12年
・8月17日~22日:軍隊輸送
・8月27日~31日:軍隊輸送
・9月8日~14日:軍隊輸送
昭和14年
・8月10日~19日:艦船護送

 

参考資料
・「駆逐艦の部(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14120643700、支那事変 功績便覧(防衛省防衛研究所所蔵)(2023.10.22確認)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C14120643700
・「駆逐艦の部(3)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14120643900、支那事変 功績便覧(防衛省防衛研究所所蔵)(2023.10.22確認)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C14120643900

栗、栂、蓮の十三粍機銃と防弾板

樅型駆逐艦の栗、栂、蓮は支那事変中に十三粍連装機銃を装備しており、栂と蓮はその機銃座に防弾板を装着していたことが分かっています。
本項では、その防弾板がいつ頃どこに装着されていたかについて、十三粍連装機銃と併せて各艦ごとに整理していこうと思います。
※航泊日誌では、機銃が搭載されたかどうかについてはあまり明記されていないため、機銃の修理後や搭載後に試射を行うことから、機銃の試射を搭載タイミングの参考としています。

【 栗 】
栗は先述した通り、十三粍連装機銃の装備は確認できるものの、十三粍連装機銃付近に防弾板が装着されていたことは確認できていないため、十三粍連装機銃の装備についてのみ記載します。
装備した機銃の全体が分かる史料として「揚子江部隊所属艦船要目一覧表」という史料がありますが、その史料によると、昭和14年11月15日時点で栗が装備していた機銃は下記の通りとなります。
装備機銃:九三式十三粍二連装×1、伊式十三粍二連装×1、毘式十二粍×1、毘式七・七粍×2、一一式軽機×2
※史料では伊式の文字が読みづらく文字だけだと判断が難しい部分がありますが、後述する伊式十三粍連装機銃の形状と写真1の栗の写真から同じ機銃と判断し、伊式十三粍連装機銃と判断しました。

写真1(『報道寫眞海軍作戦記録大陸編』より)

次に装備時期ですが、航泊日誌の記述から昭和13年4月10日頃、7月4日頃と考えられます。
1.昭和13年4月10日に「十三粍機銃試射ヲ行フ」との記載があり、1基はここで装備されていることが確認できる。
2.同年7月4日に「十三粍機銃打方始ム(試射)」の記載あり。2基目についての記載と考えられる。

最後に装備位置ですが、判明しているのは写真1で分かる1基のみとなっており、第2煙突後方となります。

【 栂 】
栂は写真2にて九三式十三粍連装機銃の周りに防弾板が確認できます。右側にダビットが見えることから第2煙突後方に装備されたものと判断できますが、撮影時期が不明です。そこで、いつ頃の撮影なのかを特定するため、栂の十三粍連装機銃の装備時期について見ていきたいと思います。

写真2(筆者所蔵)

まず、「揚子江部隊所属艦船要目一覧表」から昭和14年11月15日時点で栂が装備していた機銃は下記の通りとなります。
装備機銃:九三式十三粍二連装×2、三年式×1、毘式十二粍×1、毘式七・七粍×2、一一式軽機×2
※本史料では、毘式十二粍が二連装のような書き方がされていますが、「昭和十二年度海軍省年報」に記載されている毘式十二粍単装機銃のことだと考えられます。

次に、九三式十三粍連装機銃がそれぞれいつ装備されたものか航泊日誌や写真を基に整理していきたいと思います。
1.航泊日誌にて、昭和13年2月22日に「13粍機銃ノ試射ヲ行フ」との記載があり、この日あたりで九三式十三粍連装機銃が装備されたと考えられるが、これ以降十三粍機銃が装備されたような記載はなく、この時何基搭載したのかは不明。
2.写真3は昭和13年10月に撮影された栂だが、第2煙突後方に九三式十三粍連装機銃が装備されていることが確認できる。この写真では、他に九三式十三粍連装機銃らしいものは確認できていないため、もし、上記の2月22日に装備されたものが1基であれば第2煙突後方のものがその機銃だと考えられる。
※もう1基の九三式十三粍連装機銃は、写真4にて確認することができます。写真4はONIに掲載されている写真ですが、既に確認できてる第2煙突後方の他に、艦尾付近に1基が確認できます。

写真3(筆者所蔵)
写真4(ONIより)

写真2を見ると、機銃座の手すり部分にキャンバスの紐が見えていることから、防弾板はキャンバスの内側に装着していると考えられます。そのため、写真3では第2煙突後方の機銃座に防弾板を装着していたかが分かりませんが、一番砲後ろの機銃座に防弾板を装着していることから第2煙突後方の機銃座についても防弾板を装着していた可能性が高いと考えています。

【 蓮 】
蓮の十三粍機銃連装機銃と防弾板を写した写真として、写真5があります。
若竹型として紹介されている写真ですが、下記の理由から蓮であると判断しました。
①十二糎砲が新式防盾であるため、若竹型を含む薄以降の艦であると考えられる
②機銃の装備位置が一番砲後方となっているのは、十二糎砲が旧式防盾の樅~栂まで
③上記①②は該当する艦の範囲が被っていないが、戦後の蓮の写真にて一番砲後方に機銃座を設けて十三粍連装機銃が装備されていたことが確認できおり、どこかのタイミングで機銃座を新設したと考えられる
④支那事変中に十三粍連装機銃の搭載が確認できている艦の内、新式防盾は蓮のみ

写真5(丸 Graphic Quartery 「写真集 日本の駆逐艦(続)」より)

次にいつ頃の写真なのかについてですが、「揚子江部隊所属艦船要目一覧表」によると、昭和14年11月15日時点で蓮が装備していた機銃は下記の通りです。
装備機銃:九三式十三粍二連装×2、三年式×2、毘式七・七粍×2、一一式軽機×2

写真5に写る十三粍連装機銃は、後述する通り九三式ではなく伊式ですが、航泊日誌の記載を基に、装備機銃の変遷を下記にまとめます。
1.昭和13年5月28日に「十三粍機銃試射ヲ行フ」との記載があり、この日周辺で十三粍機銃を装備したと考えられる。
2.同年6月30日に「九洲丸横付シ十三粍機銃搭載ス」との記載あり。この時点で2基の十三粍機銃が装備されていたことになる。
3.同年7月2日に「後部十三粍右岸ノ残敵ヲ猛射ス、新十三粍試射ヲナス」との記載あり。
4.同年11月21日に「照徳丸右舷ニ横付ケス(前部十三粍機銃ヲ九三式機銃ニ取換ウ)」との記載から、この記載から7月2日に搭載された「新十三粍」とは伊式のことだったと判断できる。

以上の航泊日誌の記載から写真5は伊式十三粍連装機銃が装備されてから九三式十三粍連装機銃に換装される、昭和13年6月30日~11月21日の間に撮影されたと考えられます。また、終戦時の蓮にて確認できる一番砲後方の機銃座は、支那事変中に設けられたものであると考えられます。
航泊日誌には、昭和14年2月22日に艦橋付近の防弾板以外は取り外す旨が記載されているため、一番砲後方の機銃座にずっと防弾板が装着されていたとしても、この時には取り外されたと考えられます。

【 伊式十三粍連装機銃について 】
栗と蓮にて装備されたとしている伊式十三粍連装機銃は、詳しい形状が分からなかったため、以下の流れで判断しました。
1.十三粍連装機銃であることは判明していたため、「機銃型別一覧」という史料にて十三粍連装機銃の洗い出しを行い、以下の3種であることを確認。
・保式
・九三式
・伊式
2.「各種機銃縮図」より、写真1、写真5が保式、九三式ではないことを確認。
3.「機銃型別一覧」にて伊式を装備しているとされる沖島にて写真6を確認。
4.「揚子江部隊所属艦船要目一覧表」にて伊式を装備したとされる安宅にて、写真7を確認し、沖島の写真と合わせて伊式十三粍連装機銃のおおよその形状を把握。
※保式と合わせて3基装備しているが、そのうち2基は昭和12年の性能改善工事の際に艦橋の両側に装備された保式十三粍連装機銃のため、消去法で艦尾に装備された十三粍連装機銃が伊式と判断。
5.栗や蓮で確認できる写真が伊式十三粍連装機銃の形状と近いと判断し、装備機銃を伊式十三粍連装機銃と判断。

■沖島

写真6(丸スペシャル NO42「敷設艦のすべて」より)

■安宅

写真7(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ45 『真実の艦艇史』より)
※PhotoBankにてより詳細が確認できる写真あり。
①2023.08.20確認(https://photobank.mainichi.co.jp/kiji_detail.php?id=P19950728dd1dd3phj602000
②2023.08.20確認(https://photobank.mainichi.co.jp/kiji_detail.php?id=P19950726dd1dd6phj491000

 

参考文献・参考資料
・「揚子江部隊所属艦船要目一覧表」(2023.08.20確認).
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F2015010515344062000&ID=M2015010515344162006&REFCODE=C14120672800
・「機銃型別一覧」(防衛研究所所蔵).
・「各種機銃縮図」(筆者所蔵).
・国際報道株式會社(1944)『報道寫眞海軍作戦記録大陸編』国際報道株式會社.
・「昭和十二年度海軍省年報」(『戦史叢書31 海軍軍戦備<1>』付録)
・田村俊夫(2004)「揚子江砲艦隊の旗艦『安宅』の兵装と知られざる戦後秘話」(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ45 『真実の艦艇史』)学習研究社.
・田村俊夫(2007)「43号・45号・51号の補遺と訂正」(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ57 『帝国海軍 艦載兵装の変遷』)学習研究社.
・(1980) 丸スペシャル 『敷設艦のすべて』株式会社潮書房.
・福井静夫(1994)『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ.
・(1974) 丸 Graphic Quartery 「写真集 日本の駆逐艦(続)」株式会社潮書房.
・岩重多四郎(2019) 『日本海軍小艦艇ビジュアルガイド 駆逐艦編(増補改訂版)』大日本絵画.

C101 サークル参加

冬コミにサークル参加することになりました!
C101 土曜日 東地区“ア”ブロック-22aです!

今まで大学のサークル誌への寄稿や友人のサークルの売り子として、サークル参加をしてきましたが、自分のサークルでの参加は初めてとなります。

今回は初めての参加ということもあり、防弾装置に限らず、支那事変における駆逐艦について、広く触れられたらいいなと…そんな内容の本を考えています。

写真もいくつか公開予定ですが、サイトで公開済みのものだけでなく、サイト未公開のものも掲載予定で、掲載する写真はトリミングなしでの掲載予定です。

是非とも、よろしくお願いいたします!

峯風型の防弾装置

【 島風 】

峯風型で防弾板が確認できる艦は今のところ島風のみとなります。
写真1は、昭和12年9月26日に毎日新聞記者によって撮影されたものです。島風はこの写真以外にも複数の写真が残されていますが、防弾板が確認できるのは羅針艦橋のみで、他の個所への装着は確認できません。そのため、防弾板の装着個所は羅針艦橋のみと考えられます。

写真1(「支那事変画報」第38報より)

■装着個所:羅針艦橋

 

参考文献・参考資料
・大阪毎日新聞社(1937)「支那事変画報」第38報(1).
※毎日新聞社のPhotoBankでも同様の写真が確認できます。(2021.06.13確認)
https://photobank.mainichi.co.jp/kiji_detail.php?id=P20000326dd1dd4phj217000
・大和ミュージアム 収蔵資料データベース(2021.08.21確認).
https://jmapps.ne.jp/yamatomuseum/list.html?is_pub_mode=1&museum_sub_domain=yamatomuseum&kwd_and_or=and&f9=%E5%86%99%E7%9C%9F&title=%E5%B3%B6%E9%A2%A8&f8=%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6&f1=&sort_field=&hlvl=1&bunrui=0&uni_museum=&attach_img=1&keywords=%E5%B3%B6%E9%A2%A8&kwd_and_or=and&search_type=keyword&sort_type=asc&page=1&list_type=LLA&btn_list_type=yes&list_count=10&title_query=no&sort_field=&list_count=10

朝潮型の防弾装置

【 朝潮 】

朝潮が防弾板を装着していることは、「日本駆逐艦史」 や 『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』 に掲載されている写真で確認できますが、その装着場所はいずれも羅針艦橋のみとなっています。

写真1(「日本駆逐艦史」より)

■装着個所:羅針艦橋

 

【 大潮 】

大潮も支那事変時に中国方面で活動していた時の写真が残っており、それが写真2になりますが、鮮明ではなく、防弾板がしっかりと確認できるものではありません。
しかし、朝潮型の羅針艦橋の下半分は窄まっているのに対して、写真1では直線的な影や輪郭が確認できることと、羅針艦橋の窓枠が防弾板を装着していない艦に比べて狭いということから、防弾板が装着されていたと判断しました。
また、防弾板の装着場所も羅針艦橋以外に確認できないため、防弾板を装着した個所は羅針艦橋のみとします。

写真2(『写真 日本海軍全艦艇史』より)

■装着個所:羅針艦橋

 

参考文献・参考資料
・(2012)「日本駆逐艦史」『世界の艦船』2013年1月号増刊No,772海人社.
・福井静夫(1994)『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』ベストセラーズ.
・大和ミュージアム 収蔵資料データベース(2021.06.13確認).
※大和ミュージアムで公開されている写真の方がもう少し分かりやすいです。羅針艦橋下部に見える横の線は、防弾板を固縛している鋼索と考えられます。
https://jmapps.ne.jp/yamatomuseum/det.html?data_id=104500

特型の防弾装置

特型の防弾板装着について、第4水雷戦隊事変日誌に記載の下記命令が出ています。
この命令は、第2警戒部隊がそれまでの1水戦から4水戦に変わったタイミングで出されたもので、対象は特型でいうと、第6駆、第10駆の2駆逐隊です。
13年2月にも命令が出されいますが、同じ内容です。
他の駆逐隊については、防弾板装着の命令は確認できていませんが、全体通して防弾板の装着個所が同じ羅針艦橋と機銃台であることから、同様の命令が出ていたと思われます。

■命令内容 ※必要個所のみ抜粋
・12年12月4日:
機密中支第二警戒部隊命令第一號 第二警戒部隊命令 一、當部隊不慮警戒實施規程別紙ノ通定ム 機密中支第二警戒部隊命令第一號別紙 第二警戒部隊不慮警戒實施規程 第二通則 六.警戒ニ関シ各隊艦ハ概ネ左ノ標準ニ従ヒ兵器弾薬機関等ノ準備或ハ整備ヲ行フモノトス
(三)防弾板 特令アル迄艦橋、機銃台及軽質油庫附近ニ防弾鈑ヲ装着ス 
・13年2月24日:
機密中支第二警戒部隊命令第一號 第二警戒部隊命令 一、當部隊不慮警戒實施規程別紙ノ通定ム 機密中支第二警戒部隊命令第一號別紙 第二警戒部隊不慮警戒實施規程
(三)防弾鈑 艦橋機銃台及軽質油庫附近等ニ防弾鈑ヲ装着ス 
=================================

 

【 敷波 】

敷波は航泊日誌と写真で防弾板を装着していたことが確認できます。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月24日:防弾板ヲ取外ス
——————————————————–
上記の通り、航泊日誌の記載では、防弾板の装着場所までは分かりません。
次に写真ですが、8月23日の第三師団揚陸掩護の際に撮影された写真1にて、機銃台に防弾板を装着していることが確認できます。
8月24日に取り外していることから、8月23日の第三師団揚陸掩護に向けて装着されたものと考えられます。また、同作戦に参加した他の艦同様、羅針艦橋にも装着された可能性も考えられますが、現時点では確認できていないため、敷波の防弾板装着個所を機銃台としました。

写真1(筆者所蔵)

■装着個所:機銃台

 

【 朝霧 】

写真2は昭和12年8月23日に撮影された朝霧で、羅針艦橋と機銃台に防弾板を装着していることが確認できます。

写真2(『支那事変 記念写真帳』より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

【 夕霧 】

夕霧は写真と航泊日誌にて防弾板の装着が確認できるため、まずは写真から見ていきます。
下掲の写真3は、昭和12年8月22日に撮影されたもので、羅針艦橋と機銃台に防弾板が装着されていることが確認できます。

 

写真3(筆者所蔵)

次に航泊日誌の記載ですが、下記が防弾板関連の記載を抜き出したものになります。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月22日:艦橋防弾板ヲ装着ス
・8月24日:艦橋防弾板卸ス
——————————————————–
航泊日誌の記載内容からは機銃台への装着が確認できませんが、羅針艦橋の防弾板は8月22日装着されたものということが分かります。
以上から、夕霧の防弾板の装着個所は羅針艦橋と機銃台となります。

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【 天霧 】

天霧は、航泊日誌にて防弾板の装着が確認でき、その部分を下記に抜き出します。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月22日:艦橋防弾板取付ケ
・9月8日:艦橋防弾板装着
・9月10日:艦橋防弾板ノ卸シ方
・9月19日:艦橋防弾板装着・艦橋防弾板装着装着終ワリ
・9月24日:艦橋防弾板卸方
・10月7日:艦橋防弾板装着
・10月11日:艦橋防弾板卸方始ム・艦橋防弾板卸方終リ
——————————————————–
以上から確認できる装着場所は羅針艦橋のみであることが確認できます。
よって、天霧の装着個所は羅針艦橋のみとします。

■装着個所:羅針艦橋 

 

【 狭霧 】

狭霧が防弾板を装着していることは、航泊日誌にて確認することができます。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・12月18日:防弾板取付始ム
・12月22日:防弾板取付始ム・防弾板取付
——————————————————–
狭霧が防弾板を装着したのは、時期から見ても「第二警戒部隊参考」に記載しているように、第二警戒部隊の命令によるものと考えられます。
その命令で示されている防弾板の装着場所とは、羅針艦橋と機銃台、軽質油庫の3か所ですが、「駆逐艦の防弾板装着位置まとめ」に記載の通り、特型で確認できている装着個所は、羅針艦橋と機銃台の2か所です。
よって、装着した順番は不明ですが、22日には羅針艦橋と機銃台の2か所に装着されていたと考えられます。

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

【 朧 】

朧も、防弾板の装着について航泊日誌から確認できます。
防弾板の装着場所についての記載を下記に抜き出します。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月22日:艦橋○面ニ防弾鉄板ハル
・8月25日:艦橋防弾鉄板ヲ取外ス
・9月5日:艦橋防弾鉄板ヲ装着
・9月13日:艦橋前部防弾鉄板ヲ撤ス
——————————————————–
以上のことから、防弾板は羅針艦橋にのみ装着されていたことが分かります。

■装着個所:羅針艦橋

 

【 漣 】

漣は、同じ第十駆逐隊の狭霧と近い時期に防弾板を装着していることが、下記の航泊日誌の記載から確認できます。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・12月8日:防弾板取付作業
——————————————————–
装着場所に関しては何も記載されておらず、漣が防弾板を装着している写真を確認できていないため、装着場所は不明ですが、第二警戒部隊の命令や「駆逐艦の防弾板まとめ」の表から羅針艦橋と機銃台のどちらかか両方であると考えられます。

■装着個所:羅針艦橋か機銃台、またはその両方

 

【 潮 】

潮は、航泊日誌から防弾板の装着が確認できます。
下記に航泊日誌の防弾板に関する記載を抜き出します。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月22日:艦橋ニ防弾鈑ヲ取付ケス
・8月25日:艦橋防弾鈑ヲ卸ス
——————————————————–
以上のことから、防弾板を羅針艦橋へ装着していることが分かります。

■装着個所:羅針艦橋

 

【 暁 】

暁ですが、「歴史群像」太平洋戦史シリーズ18水雷戦隊Ⅰ『 特型駆逐艦』に掲載されている、13年の南京において撮影された写真で、羅針艦橋に防弾板が装着されているのが確認できます。

写真4(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ18水雷戦隊Ⅰ『 特型駆逐艦』より)

■装着個所:羅針艦橋

 

【 響 】

響は、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』に掲載されている、昭和12年12月上旬に揚子江で撮影された写真5にて、羅針艦橋に防弾板が装着されていることが確認できます。

写真5(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:羅針艦橋

 

【 雷 】

現在、雷が防弾板を装着していることを確認できているのは写真のみとなっています。
写真6と写真7は、どちらも上海で撮影されたもので、写真6では機銃台に、写真7では羅針艦橋に防弾板の装着が確認できます。羅針艦橋と機銃台は同じタイミングでの装着が確認できているわけではないですが、雷が所属する第六駆逐隊は、昭和12年12月4日に機密中支第二警戒部隊命令第一號 第二警戒部隊命令によって、艦橋や機銃台へ防弾板を装着することとなっているため、同時に装着していたと考えられます。

写真6(筆者所蔵)

写真7(UWM Librariesより)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

【 電 】

電は写真7にて、羅針艦橋へ防弾板を装着していることが確認できるため、防弾板の装着個所は羅針艦橋とします。

■装着個所:羅針艦橋

 

参考文献・参考資料
・ UWM Libraries (2021.09.29確認).
(https://collections.lib.uwm.edu/digital/collection/agsphoto/id/14531)
・支那事変 功績便覧(2021.09.26確認).
(https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?LANG=default&REFCODE=C14120642800&BID=F2015010515342461705&ID=&NO=1&TYPE=PDF&DL_TYPE=pdf)
・(1998)「メカニックス」(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ19『陽炎型駆逐艦』)学研パブリッシング.
・福井静夫(1994)『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』ベストセラーズ. 
・大阪毎日新聞社(1937)『支那事変 記念写真帳』
・各航泊日誌、事変日誌

睦月型の防弾装置

【 弥生 】

弥生は、「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』に掲載されている、昭和12年に揚子江で撮影された写真にて、羅針艦橋に防弾板が装着されていることが確認できます。

写真1(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』より)

■装着個所:羅針艦橋

 

【 卯月 】

卯月は、航泊日誌で羅針艦橋に防弾板を装着していることが確認できます。
以下に、航泊日誌から防弾板関係の記載を下記に抜き出します。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和13年
・9月19日:艦橋防弾装置ヲナス
・9月20日:艦橋防弾装置完成
・10月2日:防弾鈑ヲ取除ク
——————————————————–

■装着個所:羅針艦橋

 

【 皐月 】

皐月は、写真1で防弾板の装着が確認でき、その装着場所は2から4番砲砲座と艦尾の舷側、機銃台に確認できます。

写真2(ONIより)

■装着個所:機銃台、2~4番砲砲座、舷側

 

【 水無月 】

水無月は、「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』に掲載の昭和13年9月に撮影された写真にて、防弾板の装着が確認できます。その装着場所は羅針艦橋と射撃指揮所、機銃台、1から4番砲の砲座です。 

写真3(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』より)

■装着個所:羅針艦橋、射撃指揮所、機銃台、1~4番砲砲座

 

【 長月 】

長月は写真4にて、羅針艦橋と1番砲砲座、艦首に防弾板を装着していることが確認できます。

写真4(筆者所蔵)

 

【 菊月 】

菊月は、航泊日誌と写真で防弾板の装着が確認できています。
まず、航泊日誌の方から見てみると、
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月12日:防弾板取付方・防弾板収メ方
・8月14日:防弾板取付方
・8月21日:防弾板取付ケ方
・8月22日:防弾板取付ケ方
・9月22日:指揮所鋼板マンドレッドニ成ス
・10月31日:防弾板ヲ取外ス
・11月12日:防弾板取付方
——————————————————–
となり、航泊日誌からは装着場所が分かりません。
次に写真ですが、「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』に掲載されている写真にて、羅針艦橋、射撃指揮所、2~4番砲砲座に装着されていることが確認できます。

写真5(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』より)

写真5は昭和12年10月頃の撮影とされていますが、指揮所の防弾板があることから9月22日までの撮影と考えられます。
そして、それぞれどのタイミングで装着されたかですが、8月18日撮影の写真6にて羅針艦橋にのみ防弾板が装着されていることを確認できます。そのため、8月12日の装着場所は不明ですが、2日後の14日の装着場所は羅針艦橋で、8月21、22日の2日間で射撃指揮所、2~4番砲砲座に防弾板を装着したと考えられます。

写真6(「支那事變畫報」第4輯より)

■装着個所:羅針艦橋、射撃指揮所、2~4番砲砲座

 

【 三日月 】

三日月も菊月と同様に、航泊日誌と写真で防弾板の装着が確認できます。航泊日誌によると防弾板の装着状況は下記のようになっています。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月21日:艦橋周囲ニ防弾鈑装着(不足ノ分)
・10月31日:防弾板取外ス・取外終了
・11月12日:防弾鈑及マンドレッド装着ヲナス
・11月15日:防弾鈑撤去
——————————————————–
次に写真ですが、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』に掲載されている写真7にて、羅針艦橋と射撃指揮所、機銃台、舷側、1から4番砲砲座に装着していることが確認できます。写真6は昭和12年8月撮影のため、航泊日誌では、装着場所が艦橋周囲としか分かりませんでしたが、具体的にいつ装着されたかは分からないものの、1から4番の各砲座にも装着されていたことが分かります。11月は防弾板が装着されたことだけで、どこに装着されたかは不明です。

写真7(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:羅針艦橋、射撃指揮所、機銃台、舷側、1~4番砲砲座

 

【 望月 】

望月は、下記の写真8で防弾板の装着が確認できます。
この後、同じ第23駆逐隊の艦と同じように他の個所へも防弾板を装着した可能性もありますが、現時点では羅針艦橋のみの装着しか確認できていません。

写真8(「アサヒグラフ」1937年9月8日号より)

■装着個所:羅針艦橋

 

【 夕月 】

夕月も、航泊日誌と写真で防弾板の装着が確認できますが、まず最初に航泊日誌の方から見てみると下記のようになります。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月19日:右舷防弾装置
・8月22日:各部ノ防弾板装置ヲ厳ニス
・10月31日:防弾板取外ス
・11月10日:防弾板取付方
・11月22日:防弾板取外シ方
——————————————————–
次に写真の方を見てみると、「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』に掲載されている写真9で、羅針艦橋、射撃指揮所、右舷舷側、1番砲砲座に防弾板が確認できます。昭和12年の10月の撮影とされ、右舷の舷側に装着されている防弾板は航泊日誌に記載されているように、8月19日に装着されたものと考えられます。

写真9(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』より)

上述の右舷舷側以外の羅針艦橋や射撃指揮所、1番砲砲座に防弾板がいつ装着されたのかですが、写真10にて羅針艦橋のみに装着されていることが確認できています。写真10は8月18日に撮影されたもので、航泊日誌には記載がありませんが、同じ駆逐隊の菊月や三日月同様8月18日以前には羅針艦橋へ装着されていたことになります。そのため、射撃指揮所や1番砲砲座への装着は8月22日と考えられます。

写真10(「アサヒグラフ」1937年9月8日号より)

また、写真9と同時期に撮影された写真11では、機銃台に防弾板が確認できます。
第十一良友丸に横付けしているところで、航泊日誌によると10月12日のことのようです。
写真9では不鮮明で、機銃台の防弾板の有無がはっきりしませんが、航泊日誌の記載を基にすると、射撃指揮所や砲座と同様に、8月22日に装着されたものと考えられます。

写真11(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64 『睦月型駆逐艦』より)

■装着個所:羅針艦橋、射撃指揮所、機銃台、舷側、1番砲砲座

※舷側は写真9を基に記載(実際は右舷)

 

参考文献・参考資料
・福井静夫(1994)『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ.
・(2008)「歴史群像」太平洋戦史シリーズ64『睦月型駆逐艦』学習研究社.
・朝日新聞社(1937)「支那事變畫報」第4輯.
 ※写真5は毎日新聞社のPhotoBankにてきれいな写真が見れます。(2023.07.22確認)
https://photobank.mainichi.co.jp/kiji_detail.php?id=P20141023dd1dd1phj535000
・朝日新聞社「アサヒグラフ」(1937年9月8日号).
・各航泊日誌.

白露型の防弾装置

白露型は第1水雷戦隊の事変日誌にて、防弾板装着に関する命令や状況を確認することができます。
また、上記事変日誌における対象の駆逐隊は第2駆、第9駆の2駆逐隊です。
命令として確認できるのは、昭和12年7月19日が最初ですが、7月13日には既に機銃台に防弾板の装着が完了されているため、それより前に別の命令が出されていた可能性があります。
そして、8月9日に出された命令にて装着が指示されていますが、7月13日に機銃台に防弾板が装着されているため、この命令で装着する場所としては機銃台以外の場所と考えられます。
下掲の写真1は、12年8月に中国方面へ進出するため、佐世保を発った時の村雨の写真です。後述の通り、村雨は羅針艦橋と機銃台に防弾板が装着されましたが、写真1では機銃台のみで羅針艦橋への装着は確認できません。

■記載内容 ※必要個所のみ抜粋
・12年7月13日:
略午前中ニ各種物件ノ搭載ヲ了シ夕刻迄ニ川内十三粍機銃ノ装備、川内及各駆逐隊ノ機銃台附近防弾鈑ノ装着ヲ了ス 
・12年7月19日:
機密一水戦命令第六五號別紙第一 第一水雷戦隊不慮警戒實施要領
第一通則 二.各隊艦ハ左ノ標準ニ従ヒ兵器等ノ準備ヲ行フベシ
(四)機銃台附近ノ防弾鈑ヲ装着ス
・12年8月9日:
一水戦宛左記信令ヲ發令ス 信令第一〇二號 二.各隊ハ揚子江到着迄ニ左記ヲ完成シ置クベシ
(ハ)防弾鈑ヲ装着ス
・12年10月14日:
機密二警第二封鎖部隊命令第一號 第二封鎖部隊命令 附令 當部隊限リ機密一水戦命令第六五號別紙第一、第一水雷戦隊不慮警戒實施要領ノ適用ヲ止ム 
機密二警第二封鎖部隊命令第一號別紙 第二封鎖部隊不慮警戒實施規程
第二通則 六.警戒ニ関シ各隊艦ハ概ネ左ノ標準ニ従ヒ、兵器弾薬機関等ノ準備或ハ整備ヲ行フモノトス  
(三)防弾板 特令アル迄艦橋、機銃台及軽質油庫附近ニ防弾鈑ヲ装着ス 

写真1(筆者所蔵)

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【 白露 】

白露は、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』や『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集 17』に掲載されている昭和12年10月頃呉淞で撮影とされる写真1にて、機銃台に防弾板が装着されていることは確認できますが、写真が不鮮明で、羅針艦橋に防弾板が確認できないため、装着個所は機銃台のみの装着とします。

写真2(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:機銃台

 

【 時雨 】

時雨は下掲のONIの写真の他、海軍省発行の『支那事變記念寫眞帖』に掲載されている写真で、機銃台に防弾板を装着していることが確認できます。

写真3(ONIより)

■装着個所:機銃台

 

【 村雨 】

村雨が防弾板を装着している姿は、雑誌「海と空」昭和16年10月号に掲載されている写真にて羅針艦橋と機銃台に装着していることが確認できます。

写真4(「海と空」16年10月号より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

【 夕立 】

夕立は、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』に昭和12年8月から11月に撮影された写真が掲載されており、羅針艦橋と機銃台に防弾板が装着されていることが確認できます。

写真5(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

【 春雨 】

春雨は、「歴史群像」太平洋戦史シリーズ19 『陽炎型駆逐艦』に掲載されている写真5にて、羅針艦橋と機銃台に防弾板が確認できます。

写真6(「歴史群像」太平洋戦史シリーズ19 『陽炎型駆逐艦』より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

【 五月雨 】

五月雨は、写真6にて羅針艦橋と機銃台、軽質油庫に防弾板が装着されていることが確認できます。
「日本駆逐艦史」(1992)や『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集』等にも同じ写真が掲載されており、昭和12年8月22日撮影とされています。

写真7(筆者所蔵)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台、軽質油庫

 

【 山風 】

山風は航泊日誌と写真にて防弾板の装着が確認できます。
まずは、航泊日誌から防弾板関係の記載を抜き出してみると下記のようになります。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・9月13日:防弾鈑装着ヲナス
・11月1日:防弾板装着
・11月4日:防弾板ヲ収ム
・12月4日:防弾板ヲ装着ス
・12月9日:防弾板装着ヲナス
昭和13年
・6月15日:防弾板装着準備
・6月26日:防弾板装着
——————————————————–
上記の通り、航泊日誌では防弾板の装着撤去は確認できても、防弾板の装着位置までは分かりません。
そこで、「駆逐艦の防弾板まとめ」に掲載している表1を見てみると、白露型の装着位置は羅針艦橋と機銃台になっています。
そのため、少なくとも2回以上の防弾板の装着が確認できている期間は、羅針艦橋と機銃台の両方に装着されていたと考えられます。また、山風は、「日本駆逐艦史」(2013)に掲載されている写真8にて、昭和12年8月23日時点で羅針艦橋に防弾板が装着されていることが確認できます。

写真8(「日本駆逐艦史」より)

よって、航泊日誌に記載されている9月13日に装着された防弾板は機銃台へ装着されたものと考えられ、それが写真9で確認できます。やや不鮮明ですが、この時羅針艦橋にも防弾板が装着されていたと考えられます。
また、航泊日誌上では、11月1日にも防弾板が装着されていて追加で防弾板が装着されているように見えますが、9月16日に一度佐世保へ戻っており、ここで一度防弾板が撤去されている可能性が高く、11月1日に装着した防弾板は、追加装着ではなく再装着ではないかと考えています。

写真9(『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集 17』より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

【 涼風 】

涼風も航泊日誌にて防弾板の装着が確認できるため、その部分を航泊日誌から抜き出してみます。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・12月4日:防弾板ヲ設置ス
・12月31日:防弾板ヲ収ム
昭和13年
・12月7日:防弾鈑ヲ撤去ス
昭和15年
・9月21日:艦橋防弾板取付
・9月26日:防弾板ヲ離ナス
——————————————————–
昭和15年は羅針艦橋のみの装着となっており、昭和12年、13年の装着個所は分かませんが、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』に羅針艦橋と機銃台に防弾板が装着されていることが確認できます。

写真10(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

参考文献・参考資料
・朝日新聞社(1937)「支那事變畫報」第7輯.
・福井静夫(1994)『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』ベストセラーズ. 
・(1992)「日本駆逐艦史」『世界の艦船』1992年7月号増刊No,453海人社.
・(2012)「日本駆逐艦史」『世界の艦船』2013年1月号増刊No,772海人社. 
・雑誌「丸」編集部(1997)『初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』(ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17)光人社. 
・海と空社(1941)「海と空」10月号.
・各航泊日誌、事変日誌

樅型の防弾装置

【 栗 】

栗は、写真1から2番砲座と3番砲座、舷側に装着していることが分かりますが、写真2では1から3番砲砲座、舷側の4か所への装着が確認できます。
同じ、舷側に装着している写真でも、左舷に装着しているが確認できる写真1と1番砲、艦首付近に装着されている写真2がありますが、手すりに装着している防弾板は、他の場所でも手すりであれば装着できるため、別のところから移動してきたものと考えられます。

写真1(ONIより)

写真2(「日本駆逐艦史」より)

■装着個所:1~3番砲砲座、機銃台、舷側

※略図は装着個所が多い写真2の状態

 

【 栂 】

栂は、航泊日誌と写真にて防弾板を装着していることが確認できます。
航泊日誌では、防弾板について下記の記載が確認できます。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・7月28日:防弾板揚方準備・防弾板揚方準備終了
・7月29日:託送品(防弾板等)受取方・防弾板取付方
——————————————————–
航泊日誌からは装着個所が分かりませんが、昭和13年10月21日に撮影された写真3で1~3番砲砲座と機銃台、艦尾付近の舷側に装着していることが確認できます。

写真3(筆者所蔵)

また、写真4の第2煙突後方に装備された九三式十三粍連装機銃ですが、機銃の周りには防弾板が確認できます。栂には、支那事変中に2基の九三式十三粍連装機銃が装備されましたが、第2煙突後方に装備されたのかがいつか分かりません。航泊日誌には十三粍機銃試射の記録が残っており、その日あたりに少なくとも1基が装備されたと考えられます。
そのため、第2煙突後方の機銃台に防弾板が装着されたのは2月22日頃からとなります。
※栂の十三粍機銃装備については、「栗、栂、蓮の十三粍機銃と防弾板」にまとめてありますので、詳しくはそちらを参照してください。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和13年
・2月22日:13粍機銃ノ試射ヲ行フ
——————————————————–

写真4(筆者所蔵)

■装着個所:1~3番砲砲座、機銃台(第2煙突後方含む)、舷側

 

【 菊 】

奈良県立図書情報館所蔵の『北支警備記念寫眞帖』に掲載されている写真にて、羅針艦橋に防弾板を装着していることが確認できます。

 

【 葵 】

奈良県立図書情報館所蔵の『北支警備記念寫眞帖』に掲載されている写真にて、羅針艦橋に防弾板を装着していることが確認できます。

■装着個所:羅針艦橋

 

【 萩 】

萩が防弾板を装着していることは、写真で確認できています。
装着場所は羅針艦橋しか確認できていないため、防弾板の装着個所は羅針艦橋とします。

写真5(「北支事変画報」第2輯より)

■装着個所:羅針艦橋

 

【 薄 】

薄は、写真のみで防弾板の装着が確認できています。
写真6では、羅針艦橋に装着していることが確認できますが、上記の萩とは違って、キャンバスの上から装着してることが分かります。 

写真6(筆者所蔵)

■装着個所:羅針艦橋

 

【 蓮 】

蓮は、航泊日誌と写真の両方で防弾板が確認できます。
まず、下記に航泊日誌から防弾板の記載を抜き出すと下記のようになります。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・7月21日:防弾板ヲ取付ク
昭和14年
・2月22日:水兵員防彈板ヲ取外ス(艦橋附近ヲ除ク)
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上記のように、航泊日誌に防弾板関係の記載は一行だけで、装着場所も分かりません。
そこで、写真7を見てみると1番砲座と艦尾付近の舷側に防弾板が確認できます。
また、写真8では機銃台に防弾板を装着していることが確認できます。
機銃台については、1番砲後方にも新設され、十三粍機銃を装備していますが、その機銃台にも防弾板が確認できます。詳細は「栗、栂、蓮の十三粍機銃と防弾板」を参照してください。
航泊日誌に記載がある通り、昭和14年に艦橋付近の防弾板以外は取り外されていますが、艦橋付近の防弾板というと、今判明している範囲だと羅針艦橋下の機銃台の防弾板が該当しますが、詳細は不明です。
よって、防弾板の装着個所は1番砲座、機銃台、舷側とします。

写真7(ONIより)

写真8(「支那事変画報」第10輯より)

■装着個所:1番砲砲座、機銃台(1番砲後方含む)、舷側

※機銃台への装着は確認できているが、その際他の個所へも同時に装着していたかは不明

 

【 蓼 】

蓼は航泊日誌のみで防弾板の装着が確認できます。
——————————————————–
■航泊日誌の記載内容
昭和13年
・5月16日:防弾板取付方
・5月17日:防弾板取外方
——————————————————–
上記の通り、航泊日誌では防弾板の装着場所が確認できません。
駆逐艦の防弾板まとめ」の表から羅針艦橋、機銃台、舷側、砲座のどこかになりますが、まだ情報不足で特定には至らないため、装着場所は不明とさせていただきます。

■装着個所:不明

 

参考文献・参考資料
・毎日新聞社(1999)『毎日新聞秘蔵 不許可写真2』毎日新聞社.
・(2012)「日本駆逐艦史」『世界の艦船』2013年1月号増刊No,772海人社.
・大阪毎日・東京日日新聞社(1938)「支那事変画報」第46輯.
・朝日新聞社(1937)「北支事変画報」第2輯.
・朝日新聞社(1937)「支那事變畫報」第10輯.
・各航泊日誌