樅型の防弾装置

【 栗 】

栗は、写真1から2番砲座と3番砲座、舷側に装着していることが分かりますが、写真2では1から3番砲砲座、舷側の4か所への装着が確認できます。
同じ、舷側に装着している写真でも、左舷に装着しているが確認できる写真1と1番砲、艦首付近に装着されている写真2がありますが、手すりに装着している防弾板は、他の場所でも手すりであれば装着できるため、別のところから移動してきたものと考えられます。

写真1(ONIより)

写真2(「日本駆逐艦史」より)

■装着個所:1~3番砲砲座、機銃台、舷側

※略図は装着個所が多い写真2の状態

 

【 栂 】

栂は、航泊日誌と写真にて防弾板を装着していることが確認できます。
航泊日誌では、防弾板について下記の記載が確認できます。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・7月28日:防弾板揚方準備・防弾板揚方準備終了
・7月29日:託送品(防弾板等)受取方・防弾板取付方
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航泊日誌からは装着個所が分かりませんが、昭和13年10月21日に撮影された写真3で1~3番砲砲座と機銃台、艦尾付近の舷側に装着していることが確認できます。

写真3(筆者所蔵)

また、写真4の第2煙突後方に装備された九三式十三粍連装機銃ですが、機銃の周りには防弾板が確認できます。栂には、支那事変中に2基の九三式十三粍連装機銃が装備されましたが、第2煙突後方に装備されたのかがいつか分かりません。航泊日誌には十三粍機銃試射の記録が残っており、その日あたりに少なくとも1基が装備されたと考えられます。
そのため、第2煙突後方の機銃台に防弾板が装着されたのは2月22日頃からとなります。
※栂の十三粍機銃装備については、「栗、栂、蓮の十三粍機銃と防弾板」にまとめてありますので、詳しくはそちらを参照してください。
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■航泊日誌の記載内容
昭和13年
・2月22日:13粍機銃ノ試射ヲ行フ
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写真4(筆者所蔵)

■装着個所:1~3番砲砲座、機銃台(第2煙突後方含む)、舷側

 

【 菊 】

奈良県立図書情報館所蔵の『北支警備記念寫眞帖』に掲載されている写真にて、羅針艦橋に防弾板を装着していることが確認できます。

 

【 葵 】

奈良県立図書情報館所蔵の『北支警備記念寫眞帖』に掲載されている写真にて、羅針艦橋に防弾板を装着していることが確認できます。

■装着個所:羅針艦橋

 

【 萩 】

萩が防弾板を装着していることは、写真で確認できています。
装着場所は羅針艦橋しか確認できていないため、防弾板の装着個所は羅針艦橋とします。

写真5(「北支事変画報」第2輯より)

■装着個所:羅針艦橋

 

【 薄 】

薄は、写真のみで防弾板の装着が確認できています。
写真6では、羅針艦橋に装着していることが確認できますが、上記の萩とは違って、キャンバスの上から装着してることが分かります。 

写真6(筆者所蔵)

■装着個所:羅針艦橋

 

【 蓮 】

蓮は、航泊日誌と写真の両方で防弾板が確認できます。
まず、下記に航泊日誌から防弾板の記載を抜き出すと下記のようになります。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・7月21日:防弾板ヲ取付ク
昭和14年
・2月22日:水兵員防彈板ヲ取外ス(艦橋附近ヲ除ク)
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上記のように、航泊日誌に防弾板関係の記載は一行だけで、装着場所も分かりません。
そこで、写真7を見てみると1番砲座と艦尾付近の舷側に防弾板が確認できます。
また、写真8では機銃台に防弾板を装着していることが確認できます。
機銃台については、1番砲後方にも新設され、十三粍機銃を装備していますが、その機銃台にも防弾板が確認できます。詳細は「栗、栂、蓮の十三粍機銃と防弾板」を参照してください。
航泊日誌に記載がある通り、昭和14年に艦橋付近の防弾板以外は取り外されていますが、艦橋付近の防弾板というと、今判明している範囲だと羅針艦橋下の機銃台の防弾板が該当しますが、詳細は不明です。
よって、防弾板の装着個所は1番砲座、機銃台、舷側とします。

写真7(ONIより)

写真8(「支那事変画報」第10輯より)

■装着個所:1番砲砲座、機銃台(1番砲後方含む)、舷側

※機銃台への装着は確認できているが、その際他の個所へも同時に装着していたかは不明

 

【 蓼 】

蓼は航泊日誌のみで防弾板の装着が確認できます。
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■航泊日誌の記載内容
昭和13年
・5月16日:整備作業防弾板取付方
・5月17日:防弾板取付取外方
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上記の通り、航泊日誌では防弾板の装着場所が確認できません。
駆逐艦の防弾板まとめ」の表から羅針艦橋、機銃台、舷側、砲座のどこかになりますが、まだ情報不足で特定には至らないため、装着場所は不明とさせていただきます。

■装着個所:不明

 

参考文献・参考資料
・毎日新聞社(1999)『毎日新聞秘蔵 不許可写真2』毎日新聞社.
・(2012)「日本駆逐艦史」『世界の艦船』2013年1月号増刊No,772海人社.
・大阪毎日・東京日日新聞社(1938)「支那事変画報」第46輯.
・朝日新聞社(1937)「北支事変画報」第2輯.
・朝日新聞社(1937)「支那事變畫報」第10輯.
・各航泊日誌

初春型の防弾装置

初春型は第1水雷戦隊の事変日誌にて、防弾板装着に関する命令や状況を確認することができ、その対象は第9駆、第21駆の2駆逐隊です。
命令が確認できるのは、昭和12年7月19日が最初ですが、7月13日には既に機銃台へ防弾板の装着が完了しているため、それより前に別の命令が出されていた可能性があります。
また、8月9日に出された命令にて防弾板の装着が指示されていますが、7月13日に機銃台に防弾板が装着されているため、この命令で装着する場所としては機銃台以外の場所と考えられます。※白露型の写真1を参照
防弾板の装着個所と装着方法については、初春型のみ「防弾装置新設図」という史料が現存しています。その史料によると、羅針艦橋、機銃台、舷側(船首楼甲板)の3か所に8mmDSを装着することとしており、装着方法はいずれも手すりやジャッキステーに引っ掛ける方法としています。
第1水雷戦隊の事変日誌と防弾装置新設図で共通している装着個所としては羅針艦橋と機銃台の2か所のみですが、後述する通り、子日では両方で指示されている装着個所すべての防弾板装着が確認でき、その他の艦についてもばらつきはあれど、両史料で指示されている装着個所の範囲内での装着であることが確認できています。

■記載内容 ※必要個所のみ抜粋
・12年7月13日:
略午前中ニ各種物件ノ搭載ヲ了シ夕刻迄ニ川内十三粍機銃ノ装備、川内及各駆逐隊ノ機銃台附近防弾鈑ノ装着ヲ了ス 
・12年7月19日:
機密一水戦命令第六五號別紙第一 第一水雷戦隊不慮警戒實施要領
第一通則 二.各隊艦ハ左ノ標準ニ従ヒ兵器等ノ準備ヲ行フベシ
(四)機銃台附近ノ防弾鈑ヲ装着ス
・12年8月9日:
一水戦宛左記信令ヲ發令ス 信令第一〇二號 二.各隊ハ揚子江到着迄ニ左記ヲ完成シ置クベシ
(ハ)防弾鈑ヲ装着ス
・12年10月14日:
機密二警第二封鎖部隊命令第一號 第二封鎖部隊命令 附令 當部隊限リ機密一水戦命令第六五號別紙第一、第一水雷戦隊不慮警戒實施要領ノ適用ヲ止ム 
機密二警第二封鎖部隊命令第一號別紙 第二封鎖部隊不慮警戒實施規程
第二通則 六.警戒ニ関シ各隊艦ハ概ネ左ノ標準ニ従ヒ、兵器弾薬機関等ノ準備或ハ整備ヲ行フモノトス  
(三)防弾板 特令アル迄艦橋、機銃台及軽質油庫附近ニ防弾鈑ヲ装着ス 
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【 初春 】

初春は航泊日誌や写真にて防弾板が装着されていたことが分かります。
まず、航泊日誌から防弾板関係の個所を下記に抜き出してみます。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・7月15日:一部艦橋防弾鈑取付ケ方
・7月22日:機銃台ノ防弾鈑卸方
・8月2日:前甲板ニ防弾板用意
・8月11日:各部ノ防弾鈑取付ケ作業
・8月27日:艦橋防弾鈑作業
・11月8日:防弾鈑撤去

※第一水雷戦隊事変日誌に下記記載があることから、7月22日に取り外された機銃台の防弾板は、7月13日に取り付けられた防弾板と考えられる。
「略午前中ニ各種物件ノ搭載ヲ了シ夕刻迄ニ川内十三粍機銃ノ装備、川内及各駆逐隊ノ機銃台附近防弾鈑ノ装着ヲ了ス」
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航泊日誌だけでは、8月27日の艦橋での防弾鈑作業は内容が不明ですが、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』に掲載されている昭和12年10月21日に撮影された写真1にて、羅針艦橋と機銃台、軽質油庫へ防弾板が装着されていることが確認できるため、少なくとも撤去でないことが分かります。

以上の情報から7月13日~7月22日に羅針艦橋と機銃台、8月11日~11月8日には羅針艦橋と機銃台、軽質油庫に装着されていたと考えられます。
また、7月15日の艦橋への防弾板の取り付けが一部となっていますが、午前と午後に同じ作業をしており、艦橋への防弾板の装着を2回に分けて実施しただけで、装着した枚数が少ないわけではないと考えています。

写真1(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台、軽質油庫

※初春型の軽質油庫は右舷

 

【 子日 】

子日は、航泊日誌が確認できないため、現在写真のみで防弾板の装着が確認できます。
写真2のNHHCの写真で、羅針艦橋と機銃台、軽質油庫、艦首付近の舷側に装着されていることが分かります。

写真2(NHHCより引用)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台、舷側、軽質油庫

※初春型の軽質油庫は右舷

 

【 若葉 】 ※更新中

若葉は、下記に抜き出した航泊日誌の記載から防弾板を装着していたことが分かります。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・7月14日:防弾板取付方
・8月11日:防弾板ヲ取付ク
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装着場所は分かりませんが、装着回数が2回ということで装着場所は2か所以上であると考えられます。7月14日に装着された場所は、遅れて取り付けられた機銃台の防弾板と考えられます。(「第二警戒部隊参考」)
すると、残りの装着場所は「駆逐艦の防弾板まとめ」に掲載の表より、羅針艦橋か舷側のどちらかとなりますが、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』に掲載されている昭和12年10月21日に撮影された写真3にて、羅針艦橋へ防弾板が装着されていることが確認できます。
よって、若葉の防弾板装着個所は羅針艦橋と機銃台になります。

写真3(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台、軽質油庫

※初春型の軽質油庫は右舷

 

【 初霜 】

初霜も初春や若葉同様、航泊日誌や写真にて防弾板の装着を確認できます。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・10月15日:艦橋防弾鈑ヲ収ム
・10月18日:防弾鈑外シ方
・10月22日:防弾鈑卸ス
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上記は航泊日誌から抜き出した防弾板関係の記載ですが、羅針艦橋の他にも装着されていたことが分かります。他の装着場所に関してですが、写真4から艦首と機銃台に装着されていることが分かります。羅針艦橋は不鮮明ですが、航泊日誌の内容から10月15日に取り外されるまでは装着されていたことになるので、羅針艦橋、艦首、機銃台の最大3か所に防弾板を装着していたことになります。

写真4(「アサヒグラフ」1937年9月1日号より引用)

また、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』に掲載されている12年10月21日に撮影された写真5にて、機銃台へ防弾板が装着されていることが確認できることから、10月18日に取り外された防弾板は艦首部の防弾板と考えられます。
初霜は12年11月にも防弾板を装着していますが、情報が不足していて、装着場所を特定することができません。

写真5(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台、舷側

 

【 有明 】

有明は、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』や『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集 17』に掲載されている写真から機銃台に防弾板を装着していることが分かります。

写真6(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:機銃台

 

【 夕暮 】

夕暮は、子日や有明のように写真のみで防弾板の装着が確認できています。
写真7では、装着場所は羅針艦橋と機銃台に確認できます。

写真7(ONIより)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

参考文献・参考資料
・NHHC(2020.11.26確認).
https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-75000/NH-75418.html
・福井静夫(1994)『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ.
・雑誌「丸」編集部(1997)『初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』(ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17)光人社. 
・「日本駆逐艦史」『世界の艦船』2013年1月号増刊No,772海人社.
・(1998)『陽炎型駆逐艦』「メカニックス」学研パブリッシング.
・朝日新聞社「アサヒグラフ」(1937年9月1日号).
・各航泊日誌、事変日誌

神風型の防弾装置

【 松風 】

松風が防弾板を装着したことについては、航泊日誌に記載があり、その内容から羅針艦橋に装着していたことが確認できます。
以下に、航泊日誌から防弾板関係の記載を下記に抜き出します。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・10月25日:防弾板取付方準備
        艦橋防弾鋼板前後部電信室及後部操舵所釣床マンドレッドヲナス
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■装着個所:羅針艦橋

 

【 朝凪 】

朝凪も松風同様、航泊日誌にて羅針艦橋に防弾板を装着していたことが確認できます。
以下に、航泊日誌から防弾板に関する記載を抜き出します。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・9月3日:艦橋防弾板ヲ張ル
・10月7日:艦橋防弾板ヲ撤去ス
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■装着個所:羅針艦橋

 

参考文献・参考資料
・各航泊日誌

若竹型の防弾装置

【 若竹 】

若竹は、写真1にて防弾板の装着が確認できており、羅針艦橋と機銃台の2か所に装着していることが分かります。

写真1-1(筆者所蔵)

写真1-2(筆者所蔵)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

【 呉竹 】

呉竹が防弾板を装着していたことは航泊日誌にて確認できます。
航泊日誌から防弾板に関する記載を下記に抜き出します。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月11日:防弾板装備ス
・8月13日:防弾板収ム
・9月9日:防弾板装備
・12月7日:防弾板撤却ス
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以上のように、防弾板の装着は確認できますが、航泊日誌からだけでは装着位置は不明です。ですが、「駆逐艦の防弾板まとめ」に掲載している表1より、若竹型の防弾板の装着位置は羅針艦橋と機銃台の2か所のため、その両方かどちらかにのみ装着された可能性が高いと考えられます。

■装着個所:羅針艦橋か機銃台、またはその両方

 

【 芙蓉 】

芙蓉が防弾板を装着していることは、下掲の写真2で確認できます。
装着個所は羅針艦橋と機銃台です。

写真2(筆者所蔵)

■3D検証(予定)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台


 

【朝顔】

朝顔は、写真3にて機銃台に防弾板が確認できます。
一見、羅針艦橋にも装着されているように見えますが、若竹や芙蓉の防弾板と比較し、長さや数の多さから防弾板ではなく、マントレット(釣床)ではないかと考えています。

写真3(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■3D検証(予定)

 

参考文献・参考資料
・各航泊日誌
・福井静夫(1994)『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ.

防弾装置装備個所まとめ

艦型ごとで見る防弾装置装備個所まとめ
「各艦の防弾装置装備個所」で記載している各艦の防弾装置の装着個所を表1にて、艦型ごとにまとめてみます。

艦名防弾装置装着個所
峯風型羅針艦橋
神風型羅針艦橋
睦月型羅針艦橋、指揮所、舷側、砲座、機銃台
特型羅針艦橋、機銃台
初春型羅針艦橋、舷側、機銃台、軽質油庫
白露型羅針艦橋、指揮所、機銃台、軽質油庫
朝潮型羅針艦橋
樅型羅針艦橋、舷側、砲座、機銃台
若竹型羅針艦橋、機銃台
表1

同型艦でも防弾装置の装備個所が異なる場合がありますが、表1でまとめた範囲内での装備に留まるのではと考えています。
よって、防弾板の装着のみが確認できていて、装着場所が不明な艦も、この表からある程度装着場所が絞られてくるのではないかと考えます。
なお、航泊日誌内では「艦橋」と記載していても、文中で羅針艦橋とするのは、より具体的に装着場所を示すためで、駆逐艦では羅針艦橋にしか装着が確認できていないため、そのように表記しています。

各艦型の防弾装置装備個所の基本パターン(更新中)
防弾板の装着指示としては、事変日誌以外に初春型の「防弾装置新設図」があります。
その史料では、防弾装置の装着個所が指定されており、その装着個所が正しいことは写真でも確認できていますが、初春型と同様に、他の艦型でも防弾装置の装着個所はある程度決まっているのではと考えています。
そこで、各艦の防弾装置装着状況をまとめてきた集大成として、各艦の装着状況を鑑みながら、表1を基に艦型ごとの基本的な防弾板の装着個所を以下に整理しようと思います。

・峯風型:羅針艦橋


・神風型:羅針艦橋


・睦月型:羅針艦橋、指揮所、砲台、舷側、機銃台


・特型:羅針艦橋、機銃台


・初春型:羅針艦橋、舷側、軽質油庫、機銃台
 ※舷側は防弾装置新設図では艦首のため、基本艦首に装備
 ※一水戦事変日誌では羅針艦橋、機銃台、軽質油庫の3か所で、防弾装置新設図では、羅針艦橋、機銃台、舷側(艦首)となっている


・白露型:羅針艦橋、機銃台、軽質油庫
 ※一水戦の事変日誌で、羅針艦橋、機銃台、軽質油庫の3か所への装備が指示されており、実際の装備例を見ても上記3か所への装備が確認できる
 ※指揮所に装備しているのは五月雨のみで、装備個所としては他の艦型でも確認できており、珍しくはないが、先述の通り、一水戦の事変日誌の内容や、確認例が五月雨のみということから、個艦の揺らぎと考えられる。


・朝潮型:羅針艦橋


・樅型:羅針艦橋、機銃台、砲台、舷側
 └栗、栂、蓮:砲台、舷側、機銃台
 └その他(14駆、15駆):羅針艦橋


・若竹型:羅針艦橋、機銃台

防弾板の装着方法

支那事変中に多くの艦艇に装着された防弾板ですが、その装着方法は大きく2つあります。

1つ目は引っ掛ける方法です。この方法は初春型の「防弾装置新設図」という史料に記載されている方法で、防弾板の裏についているフックのようなものを羅針艦橋の場合にはジャッキステーに、機銃座や上部甲板上の場合には手摺りに引っ掛けます。

2つ目の方法は、羅針艦橋にジャッキステーが無く、1つ目の方法で装着できない場合に使われます。この方法は、防弾板の上部両端に空いた穴に鋼索を通し、それを羅針艦橋の窓枠の上から吊り下げ、吊り下げた防弾板の下部、または上部と下部の両方を他の防弾板と一緒に固定します。

また、「峯風型の防弾板」で紹介している島風のように、ボルトで直接防弾板を装着している艦もありますが、現時点でその装着方法が見られるのは島風のみです。
ボルトの使用自体は、他の艦でも見られるのですが、多くは防弾板と防弾板を繋ぎ止めるのに使用しています。

参考文献・参考資料
・(1998)『陽炎型駆逐艦』「メカニックス」学研パブリッシング.
・遠藤昭(1998)『戦前船舶』「日本軍艦の時代考証」戦前船舶研究会.

当サイトについて

ここでは、支那事変時(昭和12年7月7日~16年12月8日)の駆逐艦について、防弾装置中心にまとめています。
目標としては、できるだけ多くの艦の防弾装置の装備状況を把握し、それらを体系的にまとめることを目指しています。

まず、防弾板の装着について、前提としては「各艦は基本的に防弾板を装備していない」こととし、写真や航泊日誌等にて装着が確認できた場合のみ、防弾板の装着ありと判断しています。
なぜかというと、駆逐艦は中国方面へ進出後、常に防弾板を装着しているわけではないということと、同じ駆逐隊であっても、装着している艦とそうでない艦があるため、「第◯駆逐隊▢▢がこの時防弾板を着けていたから、同じ駆逐隊の△△も同じように防弾板を着けていただろう」というように推測することができず、防弾板を装着した駆逐艦をまとめる上で少しでも確実性を期するため、このようにしました。

支那事変中に装備した防弾板は、基本的にはすぐ取り外し可能な仮設のもので、日によって防弾板の位置が異なることもあるため、「支那事変中こういった姿で行動していたこともあった」という一時的な姿であることを念頭に読んで頂ければと思います。

また、防弾板は基本的に写真から判定していくことになりますが、はっきりと防弾板と分かる写真はそう多くはありません。
そこで、当サイトでは下記の基準を設けて、防弾板かどうかを判断しています。

1.文書史料にて確認できている装着個所に、板状のものが確認できた場合
2.防弾板が装着されている事例が確認できている個所に、本来そこにはない板状のものが確認できた場合
3.板状のものが索具で固定(または懸垂)されているか
※板状かどうか確認できない場合はシルエットや形状での判断も可(例:樅型、睦月型の砲座や朝潮型の羅針艦橋の防弾板)

なお、舷側手すりに立てかけて装着している防弾板については、装着場所が安定せず、すべての装着個所を把握することは不可能です。
そのため、より枚数が多い方や装着個所として指定されているところを主な装着個所として図示するものの、装着個所としては「舷側」でひとまとめにしています。

まだ研究中のため、内容は確認できたものから随時更新していきます。

初投稿

ようやくサイト開設しました!

ここでは支那事変における日本の駆逐艦の防弾装置について書いていこうと思います。
目的としては、より多くの駆逐艦の防弾板装着状況を把握し、それらを体系的にまとめることです。
まだ研究途中なので随時情報は更新していきますが、何か間違いなどお気づきの際はご教授頂けるとありがたいです。

不慣れではありますが、試行錯誤しながらやっていこうと思っていますので、何卒よろしくお願いします。