初春型の防弾装置

初春型は第1水雷戦隊の事変日誌にて、防弾板装着に関する命令や状況を確認することができ、その対象は第9駆、第21駆の2駆逐隊です。
命令が確認できるのは、昭和12年7月19日が最初ですが、7月13日には既に機銃台へ防弾板の装着が完了しているため、それより前に別の命令が出されていた可能性があります。
また、8月9日に出された命令にて防弾板の装着が指示されていますが、7月13日に機銃台に防弾板が装着されているため、この命令で装着する場所としては機銃台以外の場所と考えられます。※白露型の写真1を参照
防弾板の装着個所と装着方法については、初春型のみ「防弾装置新設図」という史料が現存しています。その史料によると、羅針艦橋、機銃台、舷側(船首楼甲板)の3か所に8mmDSを装着することとしており、装着方法はいずれも手すりやジャッキステーに引っ掛ける方法としています。
第1水雷戦隊の事変日誌と防弾装置新設図で共通している装着個所としては羅針艦橋と機銃台の2か所のみですが、後述する通り、子日では両方で指示されている装着個所すべての防弾板装着が確認でき、その他の艦についてもばらつきはあれど、両史料で指示されている装着個所の範囲内での装着であることが確認できています。

■記載内容 ※必要個所のみ抜粋
・12年7月13日:
略午前中ニ各種物件ノ搭載ヲ了シ夕刻迄ニ川内十三粍機銃ノ装備、川内及各駆逐隊ノ機銃台附近防弾鈑ノ装着ヲ了ス 
・12年7月19日:
機密一水戦命令第六五號別紙第一 第一水雷戦隊不慮警戒實施要領
第一通則 二.各隊艦ハ左ノ標準ニ従ヒ兵器等ノ準備ヲ行フベシ
(四)機銃台附近ノ防弾鈑ヲ装着ス
・12年8月9日:
一水戦宛左記信令ヲ發令ス 信令第一〇二號 二.各隊ハ揚子江到着迄ニ左記ヲ完成シ置クベシ
(ハ)防弾鈑ヲ装着ス
・12年10月14日:
機密二警第二封鎖部隊命令第一號 第二封鎖部隊命令 附令 當部隊限リ機密一水戦命令第六五號別紙第一、第一水雷戦隊不慮警戒實施要領ノ適用ヲ止ム 
機密二警第二封鎖部隊命令第一號別紙 第二封鎖部隊不慮警戒實施規程
第二通則 六.警戒ニ関シ各隊艦ハ概ネ左ノ標準ニ従ヒ、兵器弾薬機関等ノ準備或ハ整備ヲ行フモノトス  
(三)防弾板 特令アル迄艦橋、機銃台及軽質油庫附近ニ防弾鈑ヲ装着ス 
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【 初春 】

初春は航泊日誌や写真にて防弾板が装着されていたことが分かります。
まず、航泊日誌から防弾板関係の個所を下記に抜き出してみます。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・7月15日:一部艦橋防弾鈑取付ケ方
・7月22日:機銃台ノ防弾鈑卸方
・8月2日:前甲板ニ防弾板用意
・8月11日:各部ノ防弾鈑取付ケ作業
・8月27日:艦橋防弾鈑作業
・11月8日:防弾鈑撤去

※第一水雷戦隊事変日誌に下記記載があることから、7月22日に取り外された機銃台の防弾板は、7月13日に取り付けられた防弾板と考えられる。
「略午前中ニ各種物件ノ搭載ヲ了シ夕刻迄ニ川内十三粍機銃ノ装備、川内及各駆逐隊ノ機銃台附近防弾鈑ノ装着ヲ了ス」
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航泊日誌だけでは、8月27日の艦橋での防弾鈑作業は内容が不明ですが、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』に掲載されている昭和12年10月21日に撮影された写真1にて、羅針艦橋と機銃台、軽質油庫へ防弾板が装着されていることが確認できるため、少なくとも撤去でないことが分かります。

以上の情報から7月13日~7月22日に羅針艦橋と機銃台、8月11日~11月8日には羅針艦橋と機銃台、軽質油庫に装着されていたと考えられます。
また、7月15日の艦橋への防弾板の取り付けが一部となっていますが、午前と午後に同じ作業をしており、艦橋への防弾板の装着を2回に分けて実施しただけで、装着した枚数が少ないわけではないと考えています。

写真1(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台、軽質油庫

※初春型の軽質油庫は右舷

 

【 子日 】

子日は、航泊日誌が確認できないため、現在写真のみで防弾板の装着が確認できます。
写真2のNHHCの写真で、羅針艦橋と機銃台、軽質油庫、艦首付近の舷側に装着されていることが分かります。

写真2(NHHCより引用)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台、舷側、軽質油庫

※初春型の軽質油庫は右舷

 

【 若葉 】 ※更新中

若葉は、下記に抜き出した航泊日誌の記載から防弾板を装着していたことが分かります。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・7月14日:防弾板取付方
・8月11日:防弾板ヲ取付ク
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装着場所は分かりませんが、装着回数が2回ということで装着場所は2か所以上であると考えられます。7月14日に装着された場所は、遅れて取り付けられた機銃台の防弾板と考えられます。(「第二警戒部隊参考」)
すると、残りの装着場所は「駆逐艦の防弾板まとめ」に掲載の表より、羅針艦橋か舷側のどちらかとなりますが、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』に掲載されている昭和12年10月21日に撮影された写真3にて、羅針艦橋へ防弾板が装着されていることが確認できます。
よって、若葉の防弾板装着個所は羅針艦橋と機銃台になります。

写真3(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台、軽質油庫

※初春型の軽質油庫は右舷

 

【 初霜 】

初霜も初春や若葉同様、航泊日誌や写真にて防弾板の装着を確認できます。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・10月15日:艦橋防弾鈑ヲ収ム
・10月18日:防弾鈑外シ方
・10月22日:防弾鈑卸ス
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上記は航泊日誌から抜き出した防弾板関係の記載ですが、羅針艦橋の他にも装着されていたことが分かります。他の装着場所に関してですが、写真4から艦首と機銃台に装着されていることが分かります。羅針艦橋は不鮮明ですが、航泊日誌の内容から10月15日に取り外されるまでは装着されていたことになるので、羅針艦橋、艦首、機銃台の最大3か所に防弾板を装着していたことになります。

写真4(「アサヒグラフ」1937年9月1日号より引用)

また、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』に掲載されている12年10月21日に撮影された写真5にて、機銃台へ防弾板が装着されていることが確認できることから、10月18日に取り外された防弾板は艦首部の防弾板と考えられます。
初霜は12年11月にも防弾板を装着していますが、情報が不足していて、装着場所を特定することができません。

写真5(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台、舷側

 

【 有明 】

有明は、『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』や『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集 17』に掲載されている写真から機銃台に防弾板を装着していることが分かります。

写真6(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■装着個所:機銃台

 

【 夕暮 】

夕暮は、子日や有明のように写真のみで防弾板の装着が確認できています。
写真7では、装着場所は羅針艦橋と機銃台に確認できます。

写真7(ONIより)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

参考文献・参考資料
・NHHC(2020.11.26確認).
https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-75000/NH-75418.html
・福井静夫(1994)『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ.
・雑誌「丸」編集部(1997)『初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』(ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17)光人社. 
・「日本駆逐艦史」『世界の艦船』2013年1月号増刊No,772海人社.
・(1998)『陽炎型駆逐艦』「メカニックス」学研パブリッシング.
・朝日新聞社「アサヒグラフ」(1937年9月1日号).
・各航泊日誌、事変日誌

神風型の防弾装置

【 松風 】

松風が防弾板を装着したことについては、航泊日誌に記載があり、その内容から羅針艦橋に装着していたことが確認できます。
以下に、航泊日誌から防弾板関係の記載を下記に抜き出します。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・10月25日:防弾板取付方準備
        艦橋防弾鋼板前後部電信室及後部操舵所釣床マンドレッドヲナス
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■装着個所:羅針艦橋

 

【 朝凪 】

朝凪も松風同様、航泊日誌にて羅針艦橋に防弾板を装着していたことが確認できます。
以下に、航泊日誌から防弾板に関する記載を抜き出します。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・9月3日:艦橋防弾板ヲ張ル
・10月7日:艦橋防弾板ヲ撤去ス
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■装着個所:羅針艦橋

 

参考文献・参考資料
・各航泊日誌

若竹型の防弾装置

【 若竹 】

若竹は、写真1にて防弾板の装着が確認できており、羅針艦橋と機銃台の2か所に装着していることが分かります。

写真1-1(筆者所蔵)

写真1-2(筆者所蔵)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台

 

【 呉竹 】

呉竹が防弾板を装着していたことは航泊日誌にて確認できます。
航泊日誌から防弾板に関する記載を下記に抜き出します。
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■航泊日誌の記載内容
昭和12年
・8月11日:防弾板装備ス
・8月13日:防弾板収ム
・9月9日:防弾板装備
・12月7日:防弾板撤却ス
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以上のように、防弾板の装着は確認できますが、航泊日誌からだけでは装着位置は不明です。ですが、「駆逐艦の防弾板まとめ」に掲載している表1より、若竹型の防弾板の装着位置は羅針艦橋と機銃台の2か所のため、その両方かどちらかにのみ装着された可能性が高いと考えられます。

■装着個所:羅針艦橋か機銃台、またはその両方

 

【 芙蓉 】

芙蓉が防弾板を装着していることは、下掲の写真2で確認できます。
装着個所は羅針艦橋と機銃台です。

写真2(筆者所蔵)

■3D検証(予定)

■装着個所:羅針艦橋、機銃台


 

【朝顔】

朝顔は、写真3にて機銃台に防弾板が確認できます。
一見、羅針艦橋にも装着されているように見えますが、若竹や芙蓉の防弾板と比較し、長さや数の多さから防弾板ではなく、マントレット(釣床)ではないかと考えています。

写真3(『写真 日本海軍全艦艇史(下巻)』より)

■3D検証(予定)

 

参考文献・参考資料
・各航泊日誌
・福井静夫(1994)『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ.

第二警戒部隊と防弾板

今まで、航泊日誌や写真を中心に見てきましたが、事変日誌でも防弾板について少しだけ記載があります。各型のところでは書けなかったのでこちらでまとめて書こうと思います。

中支部隊の中の第二警戒部隊は12年8月8日から11月20日まで第一水雷戦隊(第二、九、二十一駆逐隊)。12年11月30日からは第四水雷戦隊(第六、十駆逐隊)になります。
防弾板の装着に関する個所を抜き出してみると、
・12年7月13日:略午前中ニ各種物件ノ搭載ヲ了シ夕刻迄ニ川内十三粍機銃ノ装備、川内及各駆逐隊ノ機銃台附近防弾鈑ノ装着ヲ了ス 
・12年7月19日:機密一水戦命令第六五號別紙第一 第一水雷戦隊不慮警戒實施要領 第一通則 二.各隊艦ハ左ノ標準ニ従ヒ兵器等ノ準備ヲ行フベシ (四)機銃台附近ノ防弾鈑ヲ装着ス
・12年8月9日:一水戦宛左記信令ヲ發令ス 信令第一〇二號 二.各隊ハ揚子江到着迄ニ左記ヲ完成シ置クベシ (ハ)防弾鈑ヲ装着ス
・12年10月14日:機密二警第二封鎖部隊命令第一號 第二封鎖部隊命令 附令 當部隊限リ機密一水戦命令第六五號別紙第一、第一水雷戦隊不慮警戒實施要領ノ適用ヲ止ム 
機密二警第二封鎖部隊命令第一號別紙 第二封鎖部隊不慮警戒實施規程 第二通則 六.警戒ニ関シ各隊艦ハ概ネ左ノ標準ニ従ヒ、兵器弾薬機関等ノ準備或ハ整備ヲ行フモノトス  (三)防弾板 特令アル迄艦橋、機銃台及軽質油庫附近ニ防弾鈑ヲ装着ス 
・12年12月4日:機密中支第二警戒部隊命令第一號 第二警戒部隊命令 一、當部隊不慮警戒實施規程別紙ノ通定ム 機密中支第二警戒部隊命令第一號別紙 第二警戒部隊不慮警戒實施規程 第二通則 六.警戒ニ関シ各隊艦ハ概ネ左ノ標準ニ従ヒ兵器弾薬機関等ノ準備或ハ整備ヲ行フモノトス (三)防弾板 特令アル迄艦橋、機銃台及軽質油庫附近ニ防弾鈑ヲ装着ス 
・13年2月24日:機密中支第二警戒部隊命令第一號 第二警戒部隊命令 一、當部隊不慮警戒實施規程別紙ノ通定ム 機密中支第二警戒部隊命令第一號別紙 第二警戒部隊不慮警戒實施規程 (三)防弾鈑 艦橋機銃台及軽質油庫附近等ニ防弾鈑ヲ装着ス 

上記の情報を整理すると、12年7月13日時点で第一水雷戦隊所属の駆逐艦は、機銃台に防弾板を装着し、7月19日でその状態が標準となります。
そして、8月9日に出た防弾板の装着指示ですが、この時点では機銃座には防弾板が装着されていたため、機銃台以外への装着と考えられます。
10月14日には、新たに命令が出されたため、7月19日の命令が適用されなくなります。その10月14日の命令には、防弾板の装着場所の標準として先の命令で指定されていた機銃座の他に艦橋が追加されています。
12月4日に出されたものは、内容的には10月14日に出された命令と変わらないですが、再度出された理由としては、第一水雷戦隊に代わって、第四水雷戦隊が第二警戒部隊となったためと考えられます。

次に航泊日誌の内容と照らし合わせてみます。
第一水雷戦隊
・初春
12年7月15日:一部艦橋防弾鈑取付ケ方
7月22日:機銃台ノ防弾鈑卸方
8月2日:前甲板ニ防弾板用意
8月11日:各部ノ防弾鈑取付ケ作業
8月27日:艦橋防弾鈑作業
11月8日:防弾鈑撤去
・若葉
12年7月14日:始業防弾板取付方
8月11日防弾板を取付ク

第四水雷戦隊
・狭霧
12年12月18日:防弾板取付始ム
12月22日:防弾板取付始ム・防弾板取付
・漣
12年12月8日:防弾板取付作業

第四水雷戦隊は、12月4日に出された命令に従って、各々のタイミングで装着されたと考えられ、どちらも装着場所が不明となっていますが、命令の内容で指示された場所と、「駆逐艦の防弾板まとめ」にて掲載した表から機銃座と羅針艦橋の両方かどちらかに装着されたと考えられます。
第一水雷戦隊の方ですが、7月13日に各艦機銃座の防弾板の装着を完了したと書いてありますが、現在、7月13日に機銃座に装着したことが確認できる史料がなく、推定ではありますが、若葉が機銃座に装着したと思われる時期が7月14日であり、全艦が13日に装着したわけではないようです。

参考文献・参考資料
・各事変日誌

駆逐艦の防弾板装着位置まとめ

各型の防弾板について触れてきましたが、いつどこに装着されたのかだけを知りたい人向けに、整理したい人向けに、自分の確認用に一通りまとめようと思います。

表1は艦型ごとに防弾板の装着個所をまとめたものです。
こうしてみると、全艦型で羅針艦橋への装着が確認できます。
防弾板の装着が確認できても、装着場所が確認できてない艦がありますが、この表からある程度装着場所が絞られてくるのではないかと考えてます。
また、実際に装着していても、史料不足であったり史料に記載がなく、装着していたことが確認できていない艦も当然あるとは思いますが、その艦に関しても、装着場所はこの表に記載の範囲内であると考えられます。
航泊日誌内では「艦橋」と記載していても、文中で羅針艦橋とするのは、より具体的に装着場所を示すためで、駆逐艦では羅針艦橋にしか装着が確認できていないため、そのように表記しています。

防弾板の装着方法

支那事変中に多くの艦艇に装着された防弾板ですが、その装着方法は大きく2つあります。

1つ目は引っ掛ける方法です。この方法は初春型の「防弾装置新設図」という史料に記載されている方法で、防弾板の裏についているフックのようなものを羅針艦橋の場合にはジャッキステーに、機銃座や上部甲板上の場合には手摺りに引っ掛けます。

2つ目の方法は、羅針艦橋にジャッキステーが無く、1つ目の方法で装着できない場合に使われます。この方法は、防弾板の上部両端に空いた穴に鋼索を通し、それを羅針艦橋の窓枠の上から吊り下げ、吊り下げた防弾板の下部、または上部と下部の両方を他の防弾板と一緒に固定します。

また、「峯風型の防弾板」で紹介している島風のように、ボルトで直接防弾板を装着している艦もありますが、現時点でその装着方法が見られるのは島風のみです。
ボルトの使用自体は、他の艦でも見られるのですが、多くは防弾板と防弾板を繋ぎ止めるのに使用しています。

参考文献・参考資料
・(1998)『陽炎型駆逐艦』「メカニックス」学研パブリッシング.
・遠藤昭(1998)『戦前船舶』「日本軍艦の時代考証」戦前船舶研究会.

当サイトについて

ここでは、支那事変時(昭和12年7月7日~16年12月8日)の駆逐艦について、防弾装置中心にまとめています。

まず、防弾板の装着について、前提としては「各艦は基本的に防弾板を装備していない」こととし、写真や航泊日誌等にて装着が確認できた場合のみ、防弾板の装着ありと判断しています。
なぜかというと、駆逐艦は中国方面へ進出後、常に防弾板を装着しているわけではないということと、同じ駆逐隊であっても、装着している艦とそうでない艦があるため、「第◯駆逐隊▢▢がこの時防弾板を着けていたから、同じ駆逐隊の△△も同じように防弾板を着けていただろう」というように推測することができず、防弾板を装着した駆逐艦をまとめる上で少しでも確実性を期するため、このようにしました。

支那事変中に装備した防弾板は、基本的にはすぐ取り外し可能な仮設のもので、日によって防弾板の位置が異なることもあるため、「支那事変中こういった姿で行動していたこともあった」という一時的な姿であることを念頭に読んで頂ければと思います。

また、防弾板は基本的に写真から判定していくことになりますが、はっきりと防弾板と分かる写真はそう多くはありません。
そこで、当サイトでは下記の基準を設けて、防弾板かどうかを判断しています。

1.文書史料にて確認できている装着個所に、板状のものが確認できた場合
2.防弾板が装着されている事例が確認できている個所に、本来そこにはない板状のものが確認できた場合
3.板状のものが索具で固定(または懸垂)されているか
※板状かどうか確認できない場合はシルエットや形状での判断も可(例:樅型、睦月型の砲座や朝潮型の羅針艦橋の防弾板)

なお、舷側手すりに立てかけて装着している防弾板については、装着場所が安定せず、すべての装着個所を把握することは不可能です。
そのため、より枚数が多い方や装着個所として指定されているところを主な装着個所として図示するものの、装着個所としては「舷側」でひとまとめにしています。

まだ研究中のため、内容は確認できたものから随時更新していきます。

初投稿

ようやくブログ開設しました!

ここでは支那事変における日本の駆逐艦の防弾装置について書いていこうと思います。目標は支那事変中に各艦が最も防弾板を多く装着した姿を突き止めることです。まだ研究途中なので随時情報は更新していきます。また、何か間違いなどお気づきの際はご教授頂けるとありがたいです。

不慣れではありますが、試行錯誤しながらやっていこうと思っておりますのでよろしくお願いします。